読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『笑ガス』P・G・ウッドハウス

Laughing Gas(1936)Pelham Grenville Wodehouse

 このブログで、ペラム・グレンヴィル・ウッドハウスを取り上げるのは三回目となります。

 ウッドハウスは二〇〇五年に突如、数多くの書籍が翻訳されました。あれよあれよという間に本棚がウッドハウスで埋まり、欣喜雀躍しました。
 しかし、それも束の間、ここのところ新訳の刊行がパタと途絶えています。「ジーヴス」シリーズ以外は売ゆきが芳しくなかったのでしょうか。ウッドハウスの作品は外れがなく、古びることもない。となると今の日本では良質なユーモアを受け入れる素地がなくなってしまったとしか考えられません。それは翻訳されないこと以上に悲しい……。

 ウッドハウスのすべての作品を読みたいのは山々なのですが、それが叶わないのであれば、せめて以下のふたつくらいは何とかならないでしょうか。

ウッドハウスの翻訳は、短編こそ充実してきましたが、長編に関してはまだまだ寂しい限りです。数冊が刊行されたまま中途半端になっている「ブランディングス城」シリーズの長編をすべて訳してもらえると、かなり充実します。
・昭和初期に「新青年」に掲載され、その後、単行本にも収録されず、新訳もないノンシリーズの短編を一冊にまとめて刊行して欲しい。埋もれた探偵小説の復刻はよくあるのだから、実現できなくはない気がするのですが……。

 さて、『Laughing Gas』は、一九四一年に『笑の饗宴』のタイトルで三學書房より刊行されました。『笑ガス』(写真)(※1)はタイトルを変えて東西出版社より再刊されたものです。
 ウッドハウスは数多くのシリーズものを有していますが、『笑ガス』は一応ノンシリーズの長編小説です。
「一応」と書いたのには理由があります。『笑ガス』にはシリーズキャラクターこそ登場しないものの、大きく「ハリウッドもの」というジャンルに分類されるからです。

 ウッドハウスは、一九三〇年代に二度に亘って脚本家としてハリウッドに招かれるという経験をしています。報酬はよかったものの、仕事の仕方に馴染めなかった上、舌禍事件まで起こしたので、よい思い出は残っていないようです。けれど、彼はハリウッドでの経験をしっかりと創作のなかで生かしています。
 短編では「マリナー氏」シリーズの五編(※2)のほか、『犬のいい話』(写真)というアンソロジーに収録されている「身の程知らずもほどほどに」、長編では『笑ガス』や『The Old Reliable』(一九五一)といった作品がそれです(※3)。

 ハヴァショット伯爵家の三代目の当主レジナルドは、ハリウッドで結婚しようとしている従兄弟のエグレモンドを説得するようクレアラ叔母さんに頼まれ、米国へ渡ります。ロスアンジェルスへ向かう汽車のなかで女優のエイプリル・ジューンに出会ったレジーは、たちまち恋に落ちてしまいます。
 ところが、ハリウッドで会ったエグレモンドや、かつての婚約者アンは、エイプリルが猫被りの食わせ者といいます。それに怒ったレジーが、エイプリルにプロポーズしようとした瞬間、虫歯が痛み、歯医者へゆくことになります。
 待合室で出会ったのは、大人気の子役ジョーイ・クーリーでした。そして、同時に笑気麻酔をしたレジージョーイが目覚めたとき、お互いの体と心が入れ替わっていました。

ジーヴス」シリーズの原型で、ジーヴスがほんの少ししか登場しない「ガッシー救出作戦」(一九一五)(ハードカバー版の『ジーヴズの事件簿』にのみ収録)とよく似た導入部です。
 この短編では、従兄弟のガッシーがヴォードヴィリアンの女性と結婚するのを阻止するため、バーティはアガサ伯母さんにニューヨークに送り込まれるのです。

 勿論、『笑ガス』は長編なので、その後、様々な人物が絡んできて、ウッドハウスお得意の混沌とした状況が作り出されます。しかも、それらは徐々に解決されるのではなく、最終章に一気に片がつけられるのがお約束。
 例えば、同じ頃に書かれた『サンキュー、ジーヴス』(一九三四)で、バーティは靴墨で顔を真っ黒にしたまま、敵が沢山いる田舎のコテージを逃げ回ります。大ピンチではあるものの、最後にはジーヴスが何とかしてくれるという安心感があるため、読者は何も考えずゲラゲラ笑っていられます。

『笑ガス』はその変奏曲ともいえますが、無敵相談役がおらず、さらに入れ替わりまで起こってしまう。
 少年の体に入り込んだレジーは、猛烈な映画会社社長の妹に苦しめられたり、嫌な仕事をしなくちゃいけなかったり、まともな食事をさせてもらえなかったりします。逃げ出そうにも執事に金を持ち逃げされ、自分の体に入ったジョーイは傷害事件を起こし、エグレモンドは飲んだくれていて役に立たず、ジョーイを嫉妬する子役は暴力をふるってきて、エイプリルは腹黒く、かつての婚約者アンに再び惹かれるものの彼女はエグレモンドと婚約していて、果ては誘拐までされてしまいます。
 これ以上ないくらい最悪な事態に、一体どうやって収拾をつけるのか。ひょっとすると、面倒な部分は有耶無耶にされてしまうのではないか。

 ……なんて心配は、実をいうと無用です。
 ウッドハウスを探偵小説家と考える人がいるのは、最後の最後で伏線を綺麗に回収し、すべてを丸く収めてしまう手腕を評価するからでしょう。
 勿論、『笑ガス』でも、見事な技を披露し、読者を恍惚の境地へ導いてくれます。

 ネタバレになるため、これ以上は書きません。とにかく読者は、ウッドハウスが大団円の準備を整えるまで、ひたすら笑いの渦に身を任せていればよいのです。
 八十年近く前の本なので文章は古めかしいのですが、それも却って味になっています。

 幸い、『笑ガス(笑の饗宴)』は、『ヒヨコ天国』同様、ウッドハウスの著作のなかでも手に入れやすい方なので、心の浄化を求める方は、ぜひ手にとってみてください。

※1:僕の持っている本は、訳者が一九七五年にユーモア作家の金子登へ献本したものらしく、「嘗て黒豹介たりし男」というユニークな署名が入っている。

※2:「マリナー氏」のハリウッドものは、以下の五編(発表順)。
「モンキー・ビジネス」(『よりぬきウッドハウス1』収録)
「うなずき係」(『よりぬきウッドハウス1』収録)
「オレンジ一個分のジュース」(『マリナー氏の冒険譚』収録)
スタア誕生」(『マリナー氏の冒険譚』収録)
「漂流者たち」(『よりぬきウッドハウス1』収録)

※3『笑ガス』と『The Old Reliable』をセットにした『The Hollywood Omnibus』なんて本も出版されている。また、ウッドハウスのハリウッドものには、なぜかグレタ・ガルボの名がよく出てくる。


『笑ガス』黒豹介訳、東西出版社、一九四九

→『ゴルフ人生』『ゴルきちの心情』『P・G・ウッドハウスの笑うゴルファー』P・G・ウッドハウス
→『ヒヨコ天国』P・G・ウッドハウス