読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ハザール事典 ―夢の狩人たちの物語』ミロラド・パヴィチ

Hazarski rečnik: roman leksikon u 100 000 reči(1984)Milorad Pavić

 ミロラド・パヴィチは、仕掛けに命をかけていた作家で、長編小説の全てに何らかの趣向が凝らされています。

 翻訳されているものでいうと、『風の裏側 ―ヘーローとレアンドロスの物語』(一九九一)は、中央に青い紙が挟まり、一方から読むとヘーローの、本をひっくり返して逆から読むとレアンドロスの物語になっています(ヘーローとレアンドロスのエピソードは、ギリシャ神話をモチーフにしている)。
 二十世紀の女子大生ヘーローと、十七世紀の石工レアンドロス、どちらの話を先に読むかは読者の判断に任されるため、本の前後あるいは天地は、全く区別がつかないようになっています(作者は一回半読むことを勧めている)。つまり、大扉や奥付はいわずもがな、カバーのバーコードさえふたつずつあり、解説は挟み込みという仕様なのです。
 勿論、ただ奇を衒っているだけではありません。遥かに隔たった時代に住むヘーローとレアンドロスは、死してようやく結びつくのですが、ふたりの死の間には海のように青い紙がたった一枚挟まっているだけ……。本の体裁がこれほどまでに劇的な効果を齎す例は、ごく稀でしょう。

『帝都最後の恋 ―占いのための手引書』(一九九四)は、タロットの大アルカナと同じ二十二の章に分かれており、最初から順に読んでゆくのが普通の読み方です。
 一方、巻末に掲載されている二十二枚のカードを切り離し、三つの方法(魔法十字法、大トライアド法、ケルト十字法)のいずれかの配置で並べ、カードが示す順番どおりに読むこともできます。要するに、占いに読書の仕方を委ねるという仕掛けになっているのです。
 当然ながら「短編集でもないのに、そんな読み方をして、意味が通じるのか?」という疑問が出てきますが、それは巻頭の「本書におけるWho's who 登場人物の系譜と一覧」が解決してくれます。そこに細かい人物設定とともに、あらすじまでもが書かれている(例えば「AはBを殺害し、Cに殺される。また、Eの息子で、Bの死後はFの恋人となる」といった具合)ため、最初にしっかり目を通しておけば、わけが分からなくなるなんてことはないのです。
 まあ、いきなり詳細な登場人物紹介を読まされるのは、はっきりいって苦痛(しかも、名前がハラランピエ・オプイッチとかアルセニエ・カロペロヴィッチとか、ややこしい……)ですが、ここをきちんと押さえておかないと本編を楽しめませんから、試験前を思い出して、しっかり暗記してください。
 本編は面白く、短めなので、あっという間に読み終えてしまうでしょう(※)。

 さて、ここからが本題です。
 実は、本をひっくり返して逆から読むのも、各章を好きな順番で読むのも、パヴィチの出世作『ハザール事典』に既に出てきている、あるいは実行されている方法なのです。
『ハザール事典』は、その名のとおり事典形式の小説(副題を直訳すると「十万語の事典小説」)であり、各国版で項目の配列が異なります(アルファベット順だったり、五十音順だったり)。そのため読者は、好きな順番に読んだり、読み飛ばしたりすることができます。
 また、『風の裏側』と同じ読み方をする本こそが、砂時計の組み込まれた『ハザール事典』〈初版〉(一六九一)でした(なお、『風の裏側』は、パヴィチ自身「水時計小説」と呼んでいた)。

 さらに『ハザール事典』には「女性版」と「男性版」があります。驚くのは、両者の違いが、たった十七行だけという点です。
 ポケモンじゃないんですから、一冊に異なる十七行を二通り記載すれば済むわけです。ところが、東京創元社は、わざわざ親切にも二種類の本を出版しやがりてくれました。一冊二千五百円でしたし、帯も共通だったので大いに悩んだのですが、結局は、まんまと有り難く二冊とも買わされてしまいせていただきました。

 尤も『Unikat : roman-delta』(二〇〇四)には何と百通りの結末があり、百種類の本が出版されたそうです。その意図は「読者それぞれに偶然与えられた結末を楽しんで欲しい」ってことみたいですが、愛読者泣かせであることは間違いありません〔後に全ての結末を掲載した「Plava sveska(青い本)」という本が発行されたらしいが……〕。

 さて、ハザールとは十世紀頃滅んだといわれる遊牧民族です。彼らは、黒海からカスピ海に至る南ロシアの草原にハザール王国を建設しました。この国は、世界で唯一の非ユダヤ人によるユダヤ教国家だったそうです。
 さらにユニークなのは、ハザール王国がその後、イスラム教キリスト教と改宗していった点です。『ハザール事典』は、そこに着目し、謎の多い民族の正体に迫ってゆきます。

 本書は、キリスト教関係資料が「赤色の書」、イスラム教関係資料が「緑色の書」、ユダヤ教関係資料が「黄色の書」と三部に分かれており、スピン(栞紐)までの三種ついているという凝りようです。
 三つの書のどれもが、以下の四種の人物についての記載を幹とし、それに枝葉がつくのが基本構造となっています(各色は、それぞれの宗教を示す)。

八〜九世紀頃のハザール論争の代表者キュリロスファラビ・イブン・コーライサク・サンガリ
ハザール論争の記録者メトディオスアル・ベクリイェフダ・ハレヴィ
十七世紀の『ハザール事典』〈初版〉の執筆者アヴラム・ブランコヴィチユースフ・マスーディサムエル・コーエン
二十世紀のハザール学の研究者イサイロ・スゥクムアヴィア・アブゥ・カビルドロタ・シュルツ

 三つの書には、ほかにも「アテー(王女)」や「カガン(君主)」「ハザール」「ハザール論争(ハザール王国はどの宗教を信仰すべきか、ユダヤ人、サラセン人、ギリシャ人によるディベートが行なわれた)」と四つの共通する項目があります。
 信仰、人種、言語、国籍、時代の異なる人々(彼らは転生するし、なかには悪魔もいる)の記述を統合して初めて全体像がみえてくる……のではなく、却って混沌としてくる仕組みになっているのが面白いところでもあり、困ったところでもあります……。

 というのも、ハザール論争における各宗教の代表者は、それぞれの書にしか記載されておらず、その上、論争の勝利者も書物によってバラバラだからです。そもそも論争がいつあったのかさえ、はっきりとしないのです。
 ほかにも、それぞれの書には矛盾が多数あり、全てを無条件に信じることはできません。おまけに、作者は「全ての項目を読まなくてもよい」「斜め読みしてよい」と述べています(何しろ「事典」だから)。
 つまり、嘘や出鱈目をどこまで受け入れるか、また様々な要素の何を拾い、何を切り捨てて物語を構築してゆくかは、読者の技量や性格次第なのです。
 そんな具合ですから、読み手によって、この本の印象はまるで違ったものになります。遥か古のラブストーリーのつもりで読む人もいるでしょうし、前代未聞の動機を備えた推理小説、幻想的なホラー、歴史ミステリーなどともなり得るでしょう。

 と、まあ、このような説明の仕方だと、一体、これが「小説」なのか疑問に思われる方もいらっしゃると思います。
 正直、パヴィチの作品は、枠組みが非常に凝っているがために敷居が高くなってしまっている感があります。そうでなくても衒学的で読者を選ぶのに、加えて複雑すぎる構造を示されると、更に腰が引けてしまうのかも知れません。
 実際、ウンベルト・エーコとの人気の違いは、この辺りが原因かなと思います。『薔薇の名前』は映画化できても、『ハザール事典』は到底不可能でしょうから。

 ですが、構えすぎずに、各項目をハザールにまつわる連作短編のひとつと考えれば、肩の力が抜け、純粋に小説として楽しめると思います。
 事実、マジックリアリズムの手法によって描かれた驚嘆すべき逸話の数々は、飽きるどころか、関連項目を次々に読んでみたくて仕方なくなります。歴史、民俗学、宗教史、考古学などに興味があれば、尚更楽しいでしょう。
 また、読む順番についても深く悩む必要はありません。前述のとおり、原著とはそもそも配列が異なりますし、読み進めてゆくうち、先に目をとおしておくべき重要な項目は自ずとみえてくるはずだからです。

 繰り返しになりますが、この本を読むには、ふたつの大きな壁を乗り越えなくてはいけません。
 ひとつは、本を購入する際、「女性版」と「男性版」の両方を買うべきか、それともどちらか一冊にすべきか悩むこと。もうひとつは、本を開いたとき、どの順番で読み始めるか悩むことです。
 しかし、それらを無理矢理にでも乗り越えてしまえば、日常から遠く隔たった奇妙な世界のできごとを、類をみない方法で構築した書物との出会いが待っています。恐らくそれは、滅多にない貴重な読書経験になることでしょう。

 最後に、「女性版」「男性版」の違いですが、これはユダヤ人のシュルツ博士(女性)が過去の自分に宛てた手紙のなかに現れます。
「女性版」は「付属文書I」にある如くアダムの男親指と女親指のふれあいを意味し、「男性版」は「付属文書II」で解決される殺人事件の謎を解く有力な手がかりとなるので、ぜひ二冊を読み比べてもらいたいと思います。

 ただし、本書は既に絶版で、今となっては「両方の版を手に入れるのが困難」という三つ目の壁までできてしまっています。これじゃ、ますます新しい読者が生まれにくいので、以下に「女性版」「男性版」で異なる十七行を書き出しておきます。

追記:二〇一五年十一月、文庫化されました。そのため、異なる十七行の記載は、削除させていただきます。

※:イタロ・カルヴィーノの『宿命の交わる城』(一九七三)も、タロットカードに沿って十二人の人生が語られる。

『ハザール事典 ―夢の狩人たちの物語』[女性版][男性版]工藤幸雄訳、東京創元社、一九九三