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読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『孤独な男』ウージェーヌ・イヨネスコ

ルーマニア フランス

Le Solitaire(1973)Eugène Ionesco

 この「読書感想文」は、国名でカテゴライズしているのですが、どこに分類してよいか分からない作家も多くいます。亡命したり帰化した場合、出身地にするか、国籍にするか、作品が書かれた言語に従うか、いつも悩むのです(祖国が消滅や分離独立してしまうなどのケースもある)。
 例えば、ロシア語と英語で作品を書いたり翻訳したりしたナボコフは、『カメラ・オブスクーラ』をロシアに、『マグダ』をフランスに、『マルゴ』と『ナボコフのドン・キホーテ講義』をアメリカにしました。ペーター・ヴァイスもややこしかったのですが、一応ドイツにしておきました。

 このように例外が多いことを承知しながらも、一応「出身地」を最優先することにしています。
 というわけで、国籍も活躍した場もフランスのウージェーヌ・イヨネスコは、フランスの劇作家とするのが一般的であるにもかかわらず(新潮社の「現代フランス文学13人集」にも収録されている)、出身地であるルーマニアで分類することにしました(生まれた場所にすると、前回のアメリー・ノートンは日本、フリオ・コルタサルはベルギーになってしまう)。
 学術論文ではないので、まあいいでしょう。
追記:ブログを移行したことによって、ふたつ以上の国名を入れられるようになった。国籍が変わった場合のみ併記する)

 イヨネスコは『禿の女歌手』や『犀』などで有名な不条理演劇の代表的作家ですが、小説も少し書いています。
 ただし、ほとんどが短編で、多くはその後、戯曲として書き直されています(逆もある)。それらは『大佐の写真』(La Photo du colonel、一九六二)という短編集にまとめられており、同じ白水社から翻訳が出ていますので、ぜひ併せてお読みいただきたいと思います(特に「一九三九年春」という日記の断片がお勧め)。

『孤独な男』はイヨネスコ唯一の長編小説です(これも後日、『Ce formidable bordel !』というタイトルで戯曲化されている)。
 前述したとおり、彼の戯曲や短編小説は不条理なものが多いのですが、『孤独な男』は(少なくとも前半に限っては)哲学的、観念的な小説で、ジャン=ポール・サルトルの『嘔吐』(一九三八)と比較されることが多いそうです。尤も、フランス語の小説で哲学的なものは、大抵そのように扱われるんですが......(ジョルジュ・ペレックの『眠る男』の帯にも「新しい『嘔吐』」と書かれている)。
 個人的には、エマニュエル・ボーヴの『のけ者』(一九二八)と並べて読むと面白いんじゃないかなと思います。共通点があるような、全然ないような、不思議な感じがします。

 さて、語り手の「ぼく」は、四十歳を目前にして叔父の遺産が転がり込んだため、人生のレースから降りることにしました。会社を辞め、他人とのかかわりを断ち、ひとり気ままに生きてゆこうというのです。
 ひとりで安いアパートに住み、昼と夜は近所のレストランに食事にゆく。楽しみといえば、新聞を読むことと、酒を飲むことくらいです。

 家族も友人も切り捨てて孤独に浸る人生は、僕も大いに憧れます。個人的な話で恐縮ですが、例えば、よくこんな生活を夢みるのです。
 仕事は、工場の流れ作業。人間関係は希薄でストレスがない。賃金が低く贅沢はできないが、三度の飯(弁当やファミレス)や、ささやかな楽しみ(古本やゲームを買う程度)には困らない。帰宅後や休日は、安いアパートに籠って過ごす。誰からも干渉されないし、何も生産しない。
 困るのは病気になったり、職を失ったときですが、その際は「そこで人生が終わり」と思えばよいかなと......。

「ぼく」の場合、「欲望を持たないという欲望」や「努力より退屈を選ぶ」などと嘯きますが、次第に生きている意味が見出せなくなってきます。
 あくせく会社勤めをしていた頃が懐かしくなり、大いに揺れ惑いますが、結局は元同僚に会いにゆくことをしませんでした。やがては、自己と他者の区別がつかなくなり、世界の存在が希薄になってしまいます(僕も無職のときは、公園で鳩に餌をやるくらいしか用事がなかった。夜、悩みすぎて眠れなかったっけ)。
 孤独に耐えられなくなった「ぼく」は、ウェイトレスと同棲するものの、すぐに破局し、傷口はますます深くなります。しかも、次第に内戦は激化してゆき、部屋に引きこもる「ぼく」。そして、戦闘が治まったとき、「ぼく」は老人となり、遠い過去を感傷的に振り返ることしかできなくなっていました……。

 結局のところ、人間は、他人に必要とされてこそ、真の充足感を得られるわけです。孤独に憧れはすれど、多くの人は一週間と持たないのが現実ではないでしょうか。
 逆にいうと、隠者や引きこもりになるには、相当の素質と心を殺す努力が必要となります。
 余計なことを考えずに生活していれば、あるいは「ぼく」のように廃人にならずに済むかも知れません。けれど、「ぼく」の不安や苦悩も、また理解できるのです。
 そういう意味で、一見荒唐無稽にみえながら、ごくふつうの人の普遍的な悩みを描き出しているわけで、時代や年齢を超えて響き合うものが少なからずあると思います。

 一方、前述の『のけ者』の主人公ニコラは、その柵を易々と乗り越えてしまい、最早、究極のダメ人間としか呼べないものになっています(勿論、それはそれで素晴らしい)。
 どちらがよりリアリティがあるかは、はっきりいって読者の立場や好みによって違うでしょうから、ぜひ読み比べてみて欲しいと思います(『嘔吐』も新訳が出たので、ついでにどうぞ)。
 ただし、いずれも陰鬱な気分になること請け合いです。死にたいときは却って元気になるかも知れませんけど、余計に死にたくなる虞もありますので、ご注意ください。

『孤独な男』大久保輝臣、宮崎守英訳、白水社、一九七六

→『授業/犀』ウージェーヌ・イヨネスコ