読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『タバコ・ロード』アースキン・コールドウェル

Tobacco Road(1932)Erskine Caldwell

 アースキン・コールドウェル第二次世界大戦前に人気のあった作家で、戦後は影が薄くなってしまいました。ノーベル賞を受賞し、今なお読まれているウィリアム・フォークナージョン・スタインベックなどと比較すると不遇に感じてしまいます。
 実は、彼らとコールドウェルには大きな違いがあるのですが、それについては後述します。

 コールドウェルの代表作といえる『タバコ・ロード』(写真)や『神の小さな土地』は戦前の作品ですが、読む価値がないかといえばそんなことはなく、南部の貧しい白人農民の悲劇と、彼らの愚かさを考える上で、スタインベックの『怒りの葡萄』とともに非常に重要な作品だと思います(※)。

 ジーター・レスターは、ジョージア州オーガスタ(マスターズトーナメントが行なわれる場所)近くの貧しい農村に、一家五人で暮らしています。
 先祖代々の土地を失い、小作をしていたジーターですが、地主が土地を見放した後は、工場に勤めることもなく無職のまま過ごしています。十七人いる子どもは、口唇裂の娘と軽い知的障害のある息子のほかは家を出ていってしまい音信不通です。
 工場を経営して成功しているらしい長男のトムが救ってくれることをジーターは期待していますが……。

「タバコロード」とは、収穫したタバコの葉を詰めた樽を転がして運ぶための道のことです。
 ジェイムズ・エルロイの短編「アクスミンスター−6−400」に「I looked ahead at Tobacco Road,. California style」という一節があり、「向きなおると、前方にはカリフォルニアの貧しい農村」と訳されています。
 タバコロードが、なぜ貧しい農村を意味するかというと、タバコを栽培した後、土地が痩せ衰え、綿花も野菜も育たなくなり、農民たちは貧困に喘いだという歴史があるからです。

怒りの葡萄』で農民たちが干魃と砂嵐に苦しめられたのは、元々耕作に向かない土地を無理矢理開拓したため、地面が乾き、それが強風によって砂塵を齎したというのに近いかも知れません。
 つまり、両者の貧困や苦難は自然のせいではなく、大恐慌、大規模農業の発展、機械化による労働力の過剰など人間自らが生み出したものといえます。

 加えて、『タバコ・ロード』の登場人物は、苛々するほど愚かで怠け者です。
 特に主人公のジーターは、極めつけ。娘の口唇裂を手術してやろうと考えても、子どもたちに連絡しようと考えても、いつまで経っても実行できず放置してしまいます。農業ができなければ、工場に働きにゆく手もありますが、それもせずケチな盗みを繰り返しながら、音信不通のトムが助けてくれることをひたすら待っているのです(『神の小さな土地』でも、主人公のタイ・タイ・ウォルデンは長男ジムの金を当てにした)。

 時代の変化についてゆけず、信じていた大地にも裏切られ(砂の多いローム層なので肥料が流れてしまう)、八方塞がりの人生ですが、悲壮感は余りありません。
 なぜなら、『タバコ・ロード』はまるでドタバタ喜劇みたいだからです。フォークナーやスタインベックと異なると書いたのは正にこの点を指しています。

 例えば、レスターの一家は、娘婿が手に入れた蕪を寄ってたかって奪い取ります。その様は、マルクス兄弟の喜劇映画をみているようです。
 また、年増の未亡人ベシーはジーターの息子で十六歳のデュードと結婚したいがために夫が残してくれた全財産で新車を買い、あっという間にボロボロにしてしまいます。その車を売った店の店員は、お客であるベシーの鼻をゲラゲラ笑い、おまけにぼったくります。デュードは車をぶつけ、黒人が死んでも知らん顔、それどころか実の祖母まで轢き殺しておきながら誰ひとり咎めません。
 ほかにも、オーガスタへの珍道中、ホテルでの騒ぎなど、間抜けばかりが登場する古いコントのようなシーンが最初から最後まで続くのです(ちなみに『神の小さな土地』は、馬鹿のパラダイスとまではいえないが、登場人物の言動は突飛である)。人間がいかに愚かなのかを強調するためとはいえ、過剰という誹りは逃れられません。
 そして、それがコールドウェルの文学的価値を低めている最大の原因だと思います。

怒りの葡萄』と同じような問題を扱っていながら、片や新劇、片や吉本新喜劇といった感じですから、軽々しく扱われてしまいがちなのはやむを得ないでしょう。
 とはいえ、現代の読者にとっては、むしろ『タバコ・ロード』の方が興味深いのではないかと考えてしまいます。

怒りの葡萄』は確かに名作ですが、人間の苦悩を真面目に描く文学はやや時代遅れといった感じもあります。驚きが少ない分、退屈に感じることもあるでしょう。
 一方、『タバコ・ロード』は余りの馬鹿さ加減に呆気に取られつつ、ぐいぐい読ませます。物語の初めの視点人物であるラヴ・ベンシーが途中で一切姿を現さなくなったり、その妻のパールやジーターの長男トムに至っては話のなかに出てくるだけで結局、一度も登場しないなど、小説としてもあちこちに綻びがみられるにもかかわらず、不思議な魅力に溢れているのです。

 飽くまで、破綻の少ない古典や名作を読んでいることが前提ですが、その対極といえる『タバコ・ロード』で、ゲラゲラ笑いながら愚鈍な弱者の哀しみに共感を抱くという稀有な読書体験をするのも面白いのではないでしょうか。

※:『タバコ・ロード』も『怒りの葡萄』も、ジョン・フォードが映画化している。

タバコ・ロード』龍口直太郎訳、新潮文庫、一九五七

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