読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ケンタウロス』ジョン・アップダイク

The Centaur(1963)John Updike

 ジェイムズ・ジョイスは、二十世紀初頭のダブリンにホメロスの『オデュッセイア』を対応させた『ユリシーズ』を執筆しました。
 他方、ジョン・アップダイクは一九四〇年代のペンシルベニア州シリングトン(アップダイクの故郷。作中ではオリンガー)にギリシャ神話を重ねます。それが『ケンタウロス』(写真)です。

 これは『走れウサギ』と『農場』の間に発表された初期の長編で、いわゆる「故郷」ものに分類されます。
 半人半馬のケンタウロス族のなかで唯一の賢者といわれるケイローンを父親、ケイローンに命を譲られたプロメテウスを息子(アップダイク)に当て嵌め、自身のハイスクール時代を振り返ったようです(※)。
ユリシーズ』を意識しているらしいのは、限られた時間のなかで、事件とはいえないような日常の些細なできごとを描いていることから推測できます。

 アップダイクは、特徴がないのが特徴というか、いわゆる郊外に住む中産階級のドメスティックな問題を扱うのが上手く、細かいリアリティの積み重ねが、いつの間にか読者を引き込んでゆくといった作風です。その姿勢は『イーストウィックの魔女たち』といったファンタジーでも変わりません。
 戦後アメリカの文学者によくみられる戦争体験者、南部出身者、ユダヤアメリカ人といったキーワードと縁がなかったことが、平凡な日常生活を文学に昇華させるという文学理念につながったのかも知れません。
 僕も、『走れウサギ』の終盤や、離婚した夫婦を描いた短編などには、たびたび胸を締めつけられてきました。
 このように、細部を丁寧に描く点が『ユリシーズ』と相性がよいと思います。

 一方、難解な文学とは距離がある印象のアップダイクですが、『ケンタウロス』ではいくつかの実験を行なっています。
 ひとつは、ギリシャ神話のケイローンが登場する章が、前半にふたつだけ挿入されることです。これによって最終章のギリシャ神話のパロディともいえる文体が生きてきます。この効果は劇的で、小市民の人生が一瞬にして神話に昇格したような錯覚に読者は陥るでしょう。
 もうひとつは、登場人物の経歴(その死まで)が中盤に唐突に挟み込まれる点です。本文で彼の行動や心理を深く掘り下げておきながら、たった一章でちっぽけな一生をサクッと振り返ってしまう。そのおかげで、何ともいえぬ虚しさに襲われます。

 ストーリーは、アップダイクの多くの作品と同様、大きな起伏はありません。
 高校の理科教師ジョージ・W・コールドウェルの踵に、生徒の投げた矢が刺さるシーンから始まり、家族内での微妙な立場や息子ピーターとの関係、ピーターのコンプレックスと顕示欲などがじっくりと語られます。

 その間に起こったことといえば、ヒッチハイカーを同乗させてあげたり、ジョージが癌を疑いレントゲンを撮ったり、車が故障してホテルに泊まることになったり、バスケットボールの試合のチケットがなくなったり、吹雪で車が立ち往生したりといった程度です。
「普通の人々が殺人事件に巻き込まれたり、宝の地図をみつけて南の島に向かったりすることなどまずありえず、それよりも重要なのは、恋人と別れたり、離婚をしたり、子どもが不良になったりすることだ」といわんばかりの潔さです。

ケンタウロス』においては、ジョージと、同僚である未婚の女教師ヘスター・アプルトンとの些細なやり取りが絶妙です。
 ふたりはともに五十歳で、互いに好意を持っていますが、恋愛に発展はしませんでした。ジョージが「妻との結婚は失敗だった」とボソッと口にするのですが、その言葉を長年待っていたヘスターは、実際にいわれてみると、遅すぎたことにうんざりするのです。

ケンタウロス』は父子の関係が主題になっているため、アップダイクが好んで取り上げるセックス、不倫、離婚といった題材は露骨に表現されません。
 父親のジョージは、善人ですが少々お節介で、親切にしてあげた人にも逆に疎まれるようなタイプです。裕福どころか仕事も首になりそうで、妻や義父との関係も良好とはいえません。おまけに体の調子も芳しくないのです。
 ピーターは、そんな駄目な父を軽蔑しつつ、必死に庇い、盛り上げようとします。反抗する若者が定番の文学においては、余りみかけない幸福な関係です。

 なぜこんなことになるかというと、ジョージは物語の冒頭で、すでにピーターに命を託し死んでしまったからです。つまり、息子にとって父は最早、乗り越えるべき壁ではなく、懐かしく愛すべき亡霊なのです。
 それなりに幸せそうにみえる家族ですが、生きながら死んでいる父親と、大人になろうとしない息子だと思うと、憂鬱な気持ちになります。
 しかし、こういう父子はいつの時代も沢山いるであろうことに気づき、アップダイクの現実を見通す目に怖くなるわけです。

※:ギリシャ神話において不死身の賢者ケイローンは、ヘラクレスの毒矢に当たって負傷する。そして、その苦痛から逃れるため、不死の能力をプロメテウスに譲る。

ケンタウロス』寺門泰彦、古宮照雄訳、白水社、一九六八