The Snow Leopard(1978)Peter Matthiessen
以前取り上げた『遙かな海亀の島』はフィクションでしたが、『雪豹』(写真)は著者のピーター・マシーセンが、野生動物生態学者のジョージ・B・シャラーとともにヒマラヤを旅するノンフィクションです。
といっても、動物学に関するポピュラーサイエンスの本ではなく、自らをみつめ直す心の旅の記録といえるかも知れません。
ハヤカワ文庫に入る前は、めるくまーるの「精神とランドスケープ」という叢書に収められていたことでも、それが分かると思います。
一九七三年、マシーセンは、ヒマラヤアオヒツジの調査に向かうシャラーに同行し、内ドルポを目指します。
彼らのもうひとつの目的は、大型のネコ科動物のなかで最も希少で、最も美しいといわれる雪豹との出会いでした。
厳しい大自然、思いどおりにならないポーター、思わぬアクシデントなどに悩まされつつ、クリスタルマウンテンに辿り着く一行。果たして、マシーセンの前に雪豹は姿を現してくれるのでしょうか。
ヒマラヤの動植物、人々の暮らし、宗教、政治などを記述するマシーセンの眼差しは、温かいものの、客観的かつ冷静で、信頼の持てる良質なネイチャーライティングになっています。
美しくも厳しい雪山、しかし、奥地にも既に環境破壊の波が押し寄せていることを訴えたかと思えば、雪豹どころか、雪男(イエティ)の存在までをも真面目に論じてみたり……。ほかにも、神々しい狼の群、中国によるチベット支配、融通の利かない役人、手を焼かされるシェルパやポーター、障害を持つ子どもの純朴な笑顔などなど、印象的なシーンやエピソードが続き、非常に濃密な時間が流れます。
個人的には中尾佐助の『秘境ブータン』に勝るとも劣らない出来映えだと思います。
しかし、本書は、自然科学や紀行の範疇を軽々と越えてゆくのです。
マシーセンは、自らの家族(癌で亡くなった妻や幼い末の息子)、過去のドラッグ体験、彼が傾倒している禅などについて、縦横無尽に筆を走らせます。
『雪豹』が書かれた当時を考えると、ドラッグカルチャー、ニューエイジムーブメント、神秘主義、果てはオカルトといった流れのなかに位置するのかも知れません。
リアルタイムで読んでいたら、辟易していた可能性がなきにしもあらずですが、二十一世紀の今なら、却って新鮮に楽しめます。
そして、この本の根底に流れているのは「すべてが今、ここにある」という思想です。
西洋の直線的なときの流れではなく、過去も、夢も、死者も、ある瞬間に同時に存在する感覚。それは確かに非科学的ですが、あらゆるものの命が希薄な雪と氷の世界においては、不思議と違和感がありません。
禅の老師には「何も期待するなかれ」といわれますが、マシーセンは明らかに何かを探し求めています。いや、探し求めるという行為そのもののために旅に出たとさえいえるかも知れません。
このときのマシーセンの年齢は、今の僕と同じ四十六歳。僕自身、不惑から六年経っても、未だに迷いっ放しなのでよく分かりますが、いくつになっても悩みは尽きることがありません。
マシーセンにしても、禅の修行をしたからといって、そう簡単に悟りを開くことなどできないのでしょう。魂が何かを求めて泣き叫んでいるように感じます。
それでは、彼が求めたものとは一体、何なのでしょうか。
ひとつの答えは、やはり「亡くなった妻に会うこと」ではないでしょうか。
勿論、マシーセンは死者に会えるなどと本気で考えていたわけではないと思います。
しかし、現世と来世、そして、その中間の生を同時に生きる場所として、クリスタルマウンテンは、地上で最も相応しいところのように思えます。
もうひとつの探しものである雪豹ですが、実はこの希少動物にも会えないであろうことをマシーセンは覚悟していました。実際、雪豹の糞や爪痕といった痕跡はみつかりますが、その姿を捉えることは最後まで叶いません。
けれど、彼は、雪豹に会うことが大切なのではなく、雪豹が「ここにいる」ことが重要だと気づきます。
それは、死者となった大切な人も同様です。
たとえ会えなくても「すべてが今、ここにある」ことを感じ、「何も期待することなかれ」の意味を理解できたとすれば、この旅は、大いなる成果を齎してくれたといえるのではないでしょうか。
『雪豹』〈ライフ・イズ・ワンダフル〉シリーズ、芹沢高志訳、ハヤカワ文庫、二〇〇六
→『遙かな海亀の島』ピーター・マシーセン
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