O Conto da Ilha Desconhecida(1997)José Saramago
『見知らぬ島への扉』(写真)は、一九九八年にノーベル文学賞を受賞したジョゼ・サラマーゴが、その前年に書いた作品です(原書はポルトガル語だが、日本語版は英語からの重訳)。
サラマーゴというと、映画化された『白の闇』や『複製された男』、あるいは『だれも死なない日』のようにSF的な素材や用いたり、『リカルド・レイスの死の年』や『象の旅』のように史実を用いたりしながら、現代の寓話を綴っているといった印象があります。
そういう意味で、『見知らぬ島への扉』は正に寓話としか呼べない作品です。
ボリュームも少なく、子どもでも読めるくらいやさしく書かれているのが特徴です。
ある男が、王さまの城の願いの扉を叩き、「船を一艘ください」と叫びます。「男」に会うべきか、三日考えた末、王さまは「男」の話を聞くことにします。
「男」は船を手に入れて、見知らぬ島を探しにゆきたいといいます。しかし、この世には知らない島などもう残っていないと王さまは諭します。
それでも「男」は、知らない島が存在しないことなど証明できないと主張します。根負けした王さまは、港にいって港湾長に渡すよう手紙を授けます。
その様子を陰からみていた掃除女は「男」とともに、航海に出ようと決心します。
さて、港に着くと、船は手に入れられたものの、船員がみつかりません。「男」と掃除女は取り敢えず夕食を取り、その夜は眠ることにしますが……。
「自分から離れてみないと、自分のことは発見できないものなんだ」「自分のことを知るには、自分から自由にならなければならない」といった記述があるせいで、自分探しの寓話と捉えられがちですが、寧ろこれは「高い理想や遥かな夢に現を抜かさず、身近な現実に目を向けよう」という物語なのではないでしょうか。
「男」は理想に燃え、行動を起こします。船を手に入れ、見知らぬ島をみつけることしか頭にない彼は、王さまに対しても、港湾長に対しても信念を曲げず、堂々と渡り合います。
掃除女はその姿をみて、「この人についていこう」と考えるのです。いわば、「男」に心酔している状態です。
ところが、掃除女と出会った「男」は、彼女の美しさに心を奪われてしまい、あれだけ夢中だった島のことは、何となくぼんやりしてきてしまいます。
一方、そんな「男」の心の変化に気づかない掃除女は「この人の目は、知らない島だけを見ているのね」と考えます。
男女のすれ違いなど案外こんなものかも知れないと思わせますが、問題は作者が「理想」と「現実」のどちらを由とするかです。
結論は前述したとおりで、見知らぬ島探しを諦め、女を手に入れた「男」は達成感や自己肯定感こそ得られないかも知れませんが、小さく平凡な幸せには浸れることでしょう。
そう考えると、モーリス・メーテルリンクの『青い鳥』に通じるものがあります(実際に冒険しないところは、アモス・オズの『スムヒの大冒険』にも似ている)。
勿論、高い理想を抱くこと自体は間違いではありませんが、「男」の場合、言葉遊びのような感覚で、「誰もみつけられなかった知らない島」を目指しているようにみえます。これは要するに「何でも構わないから他人がやっていないことをして、評価・注目されたい」という功名心に過ぎないのではないでしょうか。
特に若い頃はそういう考えに陥りがちですけれど、見知らぬ島といっても、発見した瞬間、知っている島になるわけで、そんなものに人生を賭ける価値があるのか、じっくりと考えてみるとよいかも知れませんね。
『見知らぬ島への扉』黒木三世訳、アーティストハウス、二〇〇一