読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『アドリア海の復讐』ジュール・ヴェルヌ

Mathias Sandorf(1885)Jules Verne

 ジュール・ヴェルヌは、エドガー・アラン・ポーの『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』を下敷きにした『氷のスフィンクス』を書いていますが、それ以前にもっと有名な作品を素材にしています。
 それがアレクサンドル・デュマ(大デュマ)の『モンテ・クリスト伯巌窟王)』(1844-1846)をモチーフにした『アドリア海の復讐』(写真)です。

 ヴェルヌにとってSFの師匠がポーならば、若いときに出会い、作家を志すきっかけとなっただけでなく、劇作家としてのデビューを後押ししてくれた大デュマは、ロマン(ロマン主義文学)の師匠といえるでしょう。
 実際、『月世界旅行』のような科学的小説と異なり、『アドリア海の復讐』は純粋な冒険小説になっています。これが大デュマに対する尊敬や親しみから生まれたことは、冒頭に掲載されたデュマ父子への献辞からも明らかです(「文学的には、大デュマの息子は私ではなく、あなただ」という小デュマからの返事も載っている)。

 ところで、両作品ともかなり以前に読んだため、記憶が曖昧でした。そこでこの機会に『モンテ・クリスト伯』を読み返してみました。
 文庫本で七冊というボリュームですから、手に取る前は躊躇してしまうのですが、『ダルタニャン物語』同様、読み始めると止まらなくなるのが大デュマの凄いところです。話の筋は分かっていても一気読みさせられるのですから、筆力の凄まじさは類をみません。

 本当は、以前やったように『モンテ・クリスト伯』関連の書籍を何冊か取り上げたいのですが、有名どころのルー・ウォレスの『ベン・ハー』や、アルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ!(わが赴くは星の群)』は現在でも新本で入手できまするし、マリー・コレリの『ヴェンデッタ』は読んだことがないため、取り敢えず『アドリア海の復讐』のみを扱うことにします。

 一八六七年、ハンガリー人のマーチャーシュ・サンドルフ伯爵は、オーストリア=ハンガリー帝国からの分離独立運動に身を捧げていました。しかし、トリエステにて蜂起する直前、仲間とともに逮捕されてしまいます。
 それは、伝書鳩が運んだ暗号を偶然手に入れたサルカニーとツィローネ、そして銀行家のシーラシュ・トロンタルによる密告が原因でした。彼らは、サンドルフが処刑された後、財産を奪うつもりだったのです。
 サンドルフは仲間とともに牢から脱出しますが、仲間ふたりは捕まって処刑され、サンドルフは海に身を投げて行方不明になってしまいます。
 それから十五年後、ラグサにアンテキルト博士が現れ、仲間の遺児ピエール・バートリらと接触します。アンテキルトこそがサンドルフが変装した姿で、ここからいよいよ復讐が始まるのです。

モンテ・クリスト伯』を下敷きにしているだけあって、プロットなどはそっくりです。ヴェルヌですから、小説としての面白さも本家に引けを取りません。
 一方、相違点もあり、それが少なからぬ違和感を齎しているようにも思えます。
 それらを以下にあげます。

モンテ・クリスト伯 アドリア海の復讐』
船乗りの青年(十九歳) 莫大な財産を持つ伯爵(三十五歳)
無実の罪 ハンガリーの独立を目指す国家反逆罪
知人に裏切られた ほとんど知らない者に密告された
十四年いた牢獄からひとりで脱獄 投獄から数週間で仲間と脱獄
脱獄から九年後に復讐を開始 脱獄から十五年後に復讐を開始


 最も大きな違いは、主人公の罪と収監期間でしょう。
 モンテ・クリスト伯が、嫉妬した知人による虚偽の通報と、保身に走った検事の策略による事実無根の罪で十四年間も独房に投獄されたのに対し、ハンガリーの独立を目指したサンドルフは紛う方なき国家反逆罪です。
 密告されなくとも、計画が失敗すれば死刑は確実ですから、これで密告者を恨むというのは何となく筋違いという気がします。

 また、サンドルフは復讐を開始するまでに、資金を得たり、別人になりきるといったことが必要なため、十五年が経過しますが、それは飽くまで自由な社会での時間です。牢獄からはわずか数週間で逃げ出しているのです。
 独房に幽閉され、話し相手といえば隠しトンネルの先にいた神父ただひとりだったモンテ・クリスト伯の状況の過酷さとは比べるべくもありません。

 もうひとつ解せないのは、あれほど熱を入れていた祖国の独立をすっかり考えなくなってしまう点です。
 そもそもサンドルフは私財を投げ売ってまで、ハンガリーの独立に尽力したわけですから、それに再び着手した方が、個人的な復讐より遥かに有意義ではないでしょうか(結局、ハンガリーオーストリアから分離独立をしたのは一九一八年。勿論、ヴェルヌの死後のことである)。

 さらに、これはヴェルヌの責任ではありませんが、両者は物語の長さが圧倒的に異なります。
モンテ・クリスト伯』は、復讐を達成するまで、周到に準備された計画を少しずつ実行してゆきます。読者は、このシーンが一体どう結びつくのか分からないまま、非常に遠回しな策略につき合うことになります。
 これが現実であれば、もっと簡単に仕返しをするのでしょうが、デュマは読み手を焦らしつつ、じっくりと外堀を埋めてゆきます。間怠っこしくて苛々することもありますが、これがラストのカタルシスに結びつくのですから焦ってページを繰ってはいけません。

 他方、『アドリア海の復讐』の方は、上下巻のボリュームですから、早々に正体をバラし、チャッチャと計画が進められます。敵を心理的に追い詰めるというより、武力で無理矢理捕まえてしまうのです。
 そのため、読了後の余韻は『モンテ・クリスト伯』には及びません。

 尤も、そのスピード感こそがヴェルヌの魅力ともいえます。
 例えば、『モンテ・クリスト伯』では絶海の孤島にある牢獄から脱出するための手口が秀逸ですが、『アドリア海の復讐』には唸るようなアイディアはないものの、冒険活劇としての魅力があります。絶壁を伝い降り、激流に揉まれ、密告者の目を避けて潜伏する箇所は、単純にスリリングです。

 勿論、ヴェルヌお得意のSF的な味つけもされています。サンドルフの活動の拠点となるフェラート号は、最新鋭の設備を備えた高速船で、地中海を縦横無尽に駆け巡るのです。

 そして、ひょっとすると次の点が、エンタメ小説としての『アドリア海の復讐』最大の長所かも知れません。それが何かというと、サンドルフが復讐の手を一切緩めないところです。
 モンテ・クリスト伯は復讐の途中で、何度も自らに問いかけます。自分がしていることは神の意志といいつつ、実は単なる報復に過ぎないのではないかと……。そして、場合によっては、慈悲深く相手を容赦してしまうのです。
 読者としては「そんな悪い奴らに手加減する必要はないのに!」と思う場面もしばしば出てきます。モンテ・クリスト伯の葛藤は、文学として当然表現すべき部分ではありますが、モヤモヤするのも確かです。

 その点、サンドルフは潔い。
 躊躇することなく仇を攻撃するので、読み手もスカッとすること請け合いです。

 実は、仇の立場も、『モンテ・クリスト伯』と『アドリア海の復讐』では随分と違いがあります。
モンテ・クリスト伯』の仇敵は、幸せな家庭を築き、財産も地位も名誉も得ています。しかし、『アドリア海の復讐』の最大のサルカニーは、サンドルフの財産をギャンブルで使い果たし、さらに一人娘を誘拐し、それと結婚することで全財産を奪おうとする悪漢です。
 こんな相手に心理的な攻撃をしたって意味はありません。頼りになる仲間と、圧倒的な力を用いて、速攻で叩き潰すのが理に適っています。

 というわけで、『アドリア海の復讐』は、陰惨な復讐譚というよりも、攫われた娘を救い出し、地中海を逃げ回る敵を追いかけ、最後は海賊と大海戦を繰り広げる、少年漫画のような冒険譚といった方が的確かも知れません(ヴェルヌは、ペスカードとマティフーという凸凹コンビが気に入ったのか、後半はふたりに主役級の活躍をさせる)。
 ヴェルヌは、大デュマに敬意を表しつつ、結局は自分の得意な領域で勝負しているわけで、そういうことであれば、この小説が面白くならないはずがありません。『海底二万哩』や『十五少年漂流記』同様、何の不安も持たず手に取ってください。

アドリア海の復讐』〈上〉〈下〉ジュール・ヴェルヌ・コレクション、金子博訳、集英社文庫、一九九三

→『氷のスフィンクスジュール・ヴェルヌ
→『詳注版 月世界旅行ジュール・ヴェルヌ、ウォルター・ジェイムズ・ミラー

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