Le Journal d'une femme de chambre(1900)Octave Mirbeau
『小間使の日記』(写真)といえば、ルイス・ブニュエル監督、ジャンヌ・モロー主演の映画(1964)を思い浮かべる人が多いかも知れません。
しかし、小説が初めて邦訳されたのは大正十二年(一九二三年)と古く、その後も訳者や出版社を変えて何度か刊行されています。
僕が持っているのは、岡野馨が亡くなった後、永井順が手を入れた(※1)新潮文庫の上下巻です(※2)。こちらは安価で入手できるのでお勧めです。
『小間使の日記』は、前回取り上げた『責苦の庭』同様、人間の醜い面をこれでもかというほど誇張しています。その毒や黒い笑いは、百年以上経った現代でも死んでおらず、読者の心臓にしっかり届くでしょう。
日本では筒井康隆の『家族八景』が、今なお若い世代に人気があることを考えると、この小説もすんなり受け入れられるような気がします(『エディプスの恋人』のように、セレスティーヌと歳下の少年とのラブシーンもある)。
若く美貌のメイドであるセレスティーヌ・Rは、都会の勤め先を転々とし、ノルマンディの田舎にあるランレール夫妻の屋敷にやってきました。
奥さんは吝嗇で底意地が悪く淫奔、旦那は小心者で一見善人風ですが、小間使に手を出しては孕ますという癖があります。また、使用人や近隣の住人も一癖ある者ばかりです。
セレスティーヌは、彼らの攻撃を巧みにかわし、ときに反撃し、しっかりと観察し、日記を認めます。
セレスティーヌの日記をミルボーが手に入れ、出版したという設定です。そのため、各章は日付で分かれています。
この小説はほとんどの部分(九割くらい)が、ランレール夫妻や過去の奉公先での経験、メイド仲間の噂話など小さなエピソードで構成されています。それも可愛げのあるものではなく、思いっきり引いてしまう鬼畜の如き所業ばかり。召使いなど人間と思っていないことがよく分かります。
有産階級を憎むミルボーは、彼らをこき下ろすことを目的に、過激な描写を選択したのでしょう。彼の私憤は発売当時であれば辟易したかも知れませんが、現代では却って味になっています。「まあまあ、おっさん、あんまり興奮するなよ」みたいな感じ。
一方、使用人の方もやられてばかりではありません。主人がおとなしいとみるや、やりたい放題してしまいます(ジョナサン・スウィフトの『奴婢訓』を読むまでもなく、主人と使用人は化かし合うものなのか)。
そもそもセレスティーヌ自身も品行方正とはいえず、誰とでも簡単に寝てしまうし、可愛がっているペットの白鼬を食べるよう隣家のモージェ大尉を誘導したりもします。
なかでもひどいのが、正直の化身と信じられている庭師兼馭者のジョゼフです。彼は、陰で様々な悪事を働いており、そうして貯めた金でシェルブールでカフェを開く予定でいます。さらにジョゼフは、少女が森で惨殺された事件の犯人であるらしいのです。
不思議なのは、猟奇犯で、なおかつ汚い老人であるジョゼフに、なぜかセレスティーヌが惹かれてしまう点です。
この辺の心理はさっぱり理解できませんが、結局、彼女はジョゼフと結婚し、カフェの女将に収まります。そして、今度は女中を雇う立場になるのです(※3)。
雇人の気持ちの分かるよい女将になるかと思いきや、三か月に四度も小間使いを取り替えてしまいます……。
人間の性質は、立場が作り出すものなのでしょうか。
であるならば、ミルボーが特定の階級や職業を憎んだのも分かります。とどのつまりは、あなたの上司だけが嫌な奴なのではなく、「上司」という存在すべてが憎たらしいというわけです。
なお、この小説にはデートで映画をみにゆくシーンがあります。映画は当時、最先端の娯楽だったのでしょうね。
『月世界旅行』がパリで公開されたのは『小間使の日記』が出版された二年後のことです。
※1:最初の岡野訳では、セレスティーヌは「粋な年増」だったらしい。
※2:下巻のノンブルは、243頁から始まる。現在は、下巻も1頁から数えるのが普通である。
※3:ブニュエルの映画では、好きになったふりをしてジョゼフを嵌める。そして、セレスティーヌは別の人と結婚する。
『小間使の日記』〈上〉〈下〉岡野馨、永井順訳、新潮文庫、一九五二
→『責苦の庭』オクターヴ・ミルボー
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