Directions to Servants(1745)Jonathan Swift
『奴婢訓』(写真)は、「ぬひくん」と読みます。
簡単にいうと「召使いに向けた指示書」ですが、そこは稀代の捻くれ者ジョナサン・スウィフトですから、まともなものを書くはずはありません。
スウィフトは、愛すべき作家のひとりではあるものの、とにかくその捻じ曲がり具合が半端なく、背筋に寒気さえ覚えるほど。現代にこんな人物がいたら、瞬時に社会から抹殺されるでしょう(ネットの匿名掲示板などでは生きられるかな?)。
例えば、彼の作品では最も有名な『ガリヴァー旅行記』(1726)。
「何となく内容は知ってる」とか「子ども向けの絵本は読んだことがあるけど……」なんて方は、ぜひ三、四部を含んだ完訳版を手に取ってみてください(※1)。
特に四部のフウイヌムを読んだら、スウィフトの人間嫌い、粘着気質、露悪趣味、糞尿趣味にびっくりすると思います。それはブラックユーモアとか諷刺なんて生やさしい表現ではなく、真の狂気と毒をたっぷり備えた危険極まりない代物……。
勿論、それを否定するのではなく、作家たるもの、こうでなければいけないと感服させられるのです(メニエール病の悪化の影響もあるのかも知れないが……)。
厭世家たるスウィフトの性質は、処女作の『桶物語/書物戦争』』(1704)から大爆発しています。これらは一応、小説で、申し訳程度の筋もあるのですが、半分以上は余談、脱線です。
しかも、宗教を諷刺するのはまあいいとして、批評家、文士、出版者らにまで毒を吐きまくる始末。匿名で出版されたとはいえ、面白く思わない人は多かったでしょう。
ただし、後期の作品のような陰鬱さはなく、総じて陽気。それをよしとするか、それとも「スウィフトらしくないので、もの足りない」と感じるかは読者次第です(どちらかというと、僕は後者)。
そもそも、スウィフトは詩や小説を馬鹿にしており、政治的パンフレットなどに真骨頂を発揮するタイプです。
つまり、小説ではない『奴婢訓』は、最もスウィフトらしい作品といえるかも知れません。
スウィフトははじめ、召使いに向けた普通の指示書を書こうとしたらしい(※2)のですが、それじゃ面白くないと思ったのか、先輩の召使いが後輩にアドバイスをするという形式に変更されました。勿論、そこに毒と皮肉をたっぷりと含ませたことは、いうまでもありません。
何しろ、アドバイスとは「いかに怠けるか」「いかに金や食べものや金目のものをちょろまかすか」「いかに主人や家族、友人たちを馬鹿にするか」「叱られたとき、いかに誤摩化すか」「いかに給金を上げさせるか」ばかりなのですから……。
現在の日本でも、十八世紀の下僕の如き職業は、まだまだ存在することでしょう。そこまでひどくなくとも、親、先輩、教師、上司などは、どんなによい人だったとしても鬱陶しいものです。
そんなうるさい連中に対応するためのハウツー本として使用されてもよいと思います。現代では最早意味をなさなくなった事項もありますが、大抵は今でも十分通用する忠告ですから。
……というのは冗談で、「こういういいわけとか屁理屈を並べる奴、いるよなあ」とか、「あいつも、こんなこと、考えてんだろうな」と、身近な誰かを思い浮かべながら読むのが正解でしょうね。
三百年経っても、楽して儲けたいという人間の本質は変わらないことがよく分かります(「塩の倹約のため、コップ類は小便で洗う」とか「従僕は出世できなければ追い剥ぎになれ」とか「赤ん坊を落として跛にしても黙っていろ。赤ん坊が死ねば丸く収まる」とか、ひどいのもあるが)。
一方で、構成は、実用書のお手本かと思うくらい、きちんと整理されています。
最初に「奴婢一般に関する総則」があり、以降、細則として「召使頭(バトラー)」「料理人」「従僕」「馭者」「別当」「家屋並びに土地管理人」「玄関番」「小間使」「腰元」「女中」「乳搾り女」「子供附の女中」「乳母」「洗濯女」「女中頭」「家庭教師」の章に分け、それぞれの職における注意点を丁寧に記載しているのです。
実は『奴婢訓』は未完で、出版されたのもスウィフトの死後の一七四五年でした(執筆は一七三一年頃)。つまり、これは完成稿にはほど遠いネタ帳の段階という可能性があります(実際、何章かは、ほんのメモ書き程度)。
スウィフトは、文学的な装飾を排した実用的な文章の書き手ですが、粘着質のため、くどく感じることが間々あります。しかし『奴婢訓』は、未完成稿であるために、その欠点が和らいでいるともいえます。
加えて、各章、ネタが盛り沢山なので、薄い本にもかかわらず、たっぷり楽しめるという利点もあるのです。
さて、一頻りゲラゲラ笑った後で、ふと思います。
スウィフトは、こんなものを一体何のために書いたのかと……。
一説には、召使いの不正を戒めるため、諷刺の形で逆説的に諭すのが目的だったとされていますが、本当にそうなのでしょうか。
実をいうと、スウィフトは、下僕なんぞまともな人間とは思っていませんでした。勿論、当時、身分の低い者に対する差別は存在しましたが、スウィフトの場合、それが極端で、「下僕は動物と変わらない」と考えていた節があるのです。
つまり、「こいつらは下等な人間だから、教え諭すことなんか到底、無理。主人の方が、十分注意すべきである」と仄めかしているというわけです。
それで思い出すのが、先に述べた『ガリヴァー旅行記』のフウイヌムです。この国では、知性を持った馬が、ヤフーと呼ばれる退化した人間を飼育しています。ヤフーは、粗野で醜く淫乱で悪臭を放ち、人間の悪いところを強調したような存在です。
ガリヴァーは、馬を崇め、同類であるヤフーを憎みます。一生、フウイヌムで暮らしたいと考えたのですが、やむを得ず英国に帰ることになります。帰国後も人間に対して嫌悪感を抱き続け、何と五年経っても、自分の妻子にすら不快感を消せないのです。
下僕どころか、愛する妻子までもが汚らわしいとされては、言葉をなくしてしまいます。
スウィフトの場合、フィクションではなく、本気で人間を嫌っていたようなので、余計にゾッとします。いずれにしても、愛とか尊敬とか感謝なんてものがいかに空しいか教えてくれる文学者は、なかなかいないでしょうね……。
なお、『奴婢訓』には「貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、且社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」A Modest Proposal: For Preventing the Children of Poor People in Ireland from Being a Burden to Their Parents or Country, and for Making Them Beneficial to the Public(1729)が併録されています。
こちらは、さらにひどい。
一応は、イギリスの圧政によって窮乏したアイルランドを救うための提案なのですが、内容は、要するに「貧民は、自分の子どもを富豪に食料として売ればよい」というものです。もう少し詳しく説明すると、こんな感じです。
貧乏人の子どもは大きくなっても仕事がなく、泥棒になるくらいしか生きる道がない。また、育てるのには金がかかる。そこで、一歳になった赤ん坊(一歳までは母乳で育つので食費が掛からないし、肉も柔らかくて旨い)を食料にしよう。
それによって、堕胎や嬰児殺しもなくなり、多数を占めるカトリック教徒の数も減る。新しい料理も開発されるし、殺した赤ん坊の皮からは、淑女の手袋や紳士の夏靴が作れるなど利点が多い。
何より素晴らしいのは、早く死んでしまうことで、金も仕事もなく、住む家も着物もなく、地主の暴虐に苦しめられる惨めな暮らしを避けることができる点である。
これを読み、残酷とか非道というイギリス人がいたら、スウィフトの思う壷です。それほどまでにアイルランド人を追い詰めたのは、お前たちではないか、といい返せるからです。
それにしても、生粋のアイルランド人でもないし、アイルランドを愛してもいない癖に、平気でこういうものを書いちゃうところが、いかにもスウィフトらしいなあと思います。
なお、少し前にアイルランドで八百人の子どもの遺骨が発見されたというニュースがありました。まさかねえ……。
追記:二〇一五年一月、平凡社から『召使心得 他四篇』のタイトルで新訳が出ました。
※1:児童向けの『ガリヴァー旅行記』では、リリパット(小人国)で宮殿の火事を小便で鎮火したり、ブロブディンナグ(大人国)で女たちがガリヴァーを丸裸にして可愛がったり、ガリヴァーの前で裸になったり排泄したり、果ては乳首に乗っけて遊んだり、あるいは断首を見学したりといったエピソードは省かれているのであろうか……。
ちなみに、エーリッヒ・ケストナーが子ども向けにリライトした「ガリバー旅行記」には、小便で鎮火した話のみ載っている。
※2:巻末に「宿屋における召使のつとめ」という、まともな指図の文章が掲載されているが、ちっとも面白くない。
『奴婢訓』深町弘三訳、岩波文庫、一九五〇