読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『キンドレッド』オクテイヴィア・E・バトラー

Kindred(1979)Octavia E. Butler

 オクテイヴィア・E・バトラーは「黒人・女性・SF作家」です。
 この三つの条件を満たす作家はそれほど多くなさそうです。思いつく範囲ではナロ・ホプキンスン、アンドレア・ヘアストン、N・K・ジェミシン、タナナリヴ・デューらが当てはまるでしょうか。
 なかでも、ヒューゴー賞ネビュラ賞ローカス賞などを受賞している実力派のバトラーは代表格といってよいと思います。

 にもかかわらず、邦訳された長編は『キンドレッド』のみ。
 その上、『キンドレッド』もSF色は濃くはなく、バトラーの作品のなかでは異質だそうです。さらに、版元が京都で英語教材を主に発行している山口書店であったり、訳者の風呂本惇子はアリス・ウォーカーやジャメイカ・キンケイドら黒人女流文学者の作品を訳していたりするため、スルーしてしまったSFファンもいたのではないでしょうか。
 かくいう僕も絶版になった後、古書店で購入したのですが、帯どころかスリップまで残っている美本で、読まれた形跡は全くありませんでした(写真)。もしかすると、閉店した書店の在庫が古本屋に流れたのかも知れません。
『キンドレッド』は、今や古書店でみかけることも稀になってしまったので、発見したら購入を検討してもよいと思います(追記:後日、古書店で安いのをみつけたのでもう一冊買っておいた)。

 二十代の黒人女性デイナは、現代(一九七六年)のロサンゼルスから、奴隷制度が存在する南北戦争以前(十九世紀初め)の南部へタイムスリップしてしまいます。そこで白人の少年ルーファスの命を救い現代へ戻ってくるのですが、どうやら彼がピンチになるたび、彼女が招喚されるらしいことが分かってきました。さらにルーファスは、デイナの祖先であることも明らかになります(つまり、デイナには白人の血が混じっている)。
 さて、三度目のタイムスリップで側にいた夫のケヴィン(白人)も巻き込んだデイナは、夫を残して現代に帰ってきてしまいます。次に過去へ飛んだとき、既に五年が経過しており、ケヴィンの姿はありませんでした……。

 沢山のテーマを内包した小説ですが、その話に入る前に、ユニークな設定やルールからみてみます。
 デイナは、何度も過去にタイムスリップするが、そのたびルーファスは成長している(デイナが到着する年がどんどん現代に近くなる)。彼に危機が訪れるとデイナは過去に飛ばされ、自分が危機に陥ると現代へ帰ってくる。姿を消している時間は、過去で過ごした時間の何十分の一(例えば、過去で数時間過ごすと、現代では数分いなくなる)。近くにいる人も一緒にタイムスリップする……といった具合。

 ただし、なぜデイナが招喚されるのか、また、そこにどういった力が働いているのかについては十分な説明がなされません。特に、ルーファスの危機にタイムスリップが起こるものの、いつの時点のデイナが呼ばれるか分からない点は、ご都合主義といわれても仕方ないでしょう。
 しかし、実は、これがとても重要です。
 というのも、『キンドレッド』はSFという狭いジャンルのなかだけで読まれるべき作品ではないからです。
 タイムスリップに余計な理屈をつけないためSFが苦手な方でも十分ついてこられます。また、繰り返し過去へ向かうのは数多くのテーマを処理するために必要不可欠なのです。

 バトラーが、この小説を執筆したのは、ある黒人青年が「奴隷制度下の黒人たちは抵抗すべきだった」と発言したことがきっかけだそうです。黒人が南北戦争以前のアメリカで生きてゆくのがいかに過酷だったか、彼には想像する力が足りないとバトラーは考えました。
 また、これは黒人にしか書けない小説、というか、黒人が書いたのでなければ読者は納得しないと思います。白人が書くと、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』、あるいはトム・デミジョン(ジョン・スラデックトマス・M・ディッシュ)の『黒いアリス』(1968)のようになってしまう虞があります。

 予め断っておきますが、『キンドレッド』はやたらと重苦しいだけの小説ではなく、エンターテインメントとしても十分に読ませる作品に仕上がっています。
 落ち着く間もなく、何度も何度も過去に飛ばされ、その都度、精神が疲弊してゆくデイナに感情移入すれば、二段組み三百五十頁強があっという間に感じられることでしょう。コニー・ウィリスを冗長と感じる方にも、これなら自信を持ってお勧めできます。
 ちなみに、冒頭に結末の一部が描かれますけど、ラストにはそれを上回る衝撃が用意されていますので、ご心配なく。

 さて、デイナのタイムスリップは、正に地獄への旅となります。
 自由黒人であることを示す証明書を持たないデイナは、白人にみつかったら問答無用に暴力を振るわれてもおかしくない人間以下の存在に落とされます。
 しかも、当時では考えられない話し方をし、男のような服装をし、教育を受けている様子は、野蛮な白人たちの反感を招きます。いや、白人のみならず黒人にさえ胡散臭い目でみられ、トラブルを招き兼ねないと避けられてしまいます。
 どうやら命の危険に晒されると現代に戻ってこられるようですが、それに気づいたとしても、猟銃でズドンとやられたら元も子もないため、思い切った行動はなかなかとれないのです。

 彼女にとって辛いのは肉体の面だけではありません。
 明らかに理性的でない白人の女性に熱いコーヒーをぶっかけられても、馬鹿の振りをして謙っていなければならない。
 また、白人である夫のケヴィンが側にいてくれるのは身の危険という意味では大いに助かるのですが、そこでは対等の立場を捨て、主人と奴隷に徹する必要があります。
 それらは、とどのつまり過去の正しくない制度を認めることでもあります。きちんとした教育を受けた二十世紀のインテリ黒人女性にとっては、これ以上の屈辱はないでしょう(※)。

 さらにいうと、それが制度の問題のみであれば、話は単純です。しかし、当然ながら奴隷制度がなくなっても人種差別は消えません。
 デイナとケヴィンとでは、どうしても意識の上で温度差が生じてしまいます。例えば、奴隷の扱いについて、ケヴィンは「ほかのプランテーションよりマシ」と考えてしまいますが、デイナは程度の違いなど関係なく、黒人を人間とみなしていない点に憤りを感じるのです。
 それは何も十九世紀だけに存在するのではなく、現代でも依然として残る課題です。デイナとケヴィンが結婚すると決めたとき、双方の親戚はともに嫌悪感を隠そうとしませんでした。

 結局、『キンドレッド』は、過去の忌まわしい歴史について振り返るために書かれたのではなく、現代まで根強く残る人種差別とどう向き合うかを読者に問い掛けているのでしょう。
 過去で暮らしたデイナは、黒人がなぶり殺されたり売られたりするのを目にし、自身も殴られ、激しく鞭打たれ、遂には片腕を失うという経験をしました。しかし、現代に戻った彼女が必ずしも幸せとは限りません。
 偏見や白人に有利な社会システムは消えず、有色人種を苦しめ続けています。自由を得、豊かになったからこそ、その不条理さに心が悲鳴をあげることもあるはずです。
 デイナの本当の試練は、「未来の者が過去を体験する」そして「過去を体験した者が未来で生きる」という二重の苦悩を抱えて生きてゆかなければならなくなったことなのかも知れません。

追記:二〇二一年十一月、河出文庫から復刊されました。

※:もうひとつ、デイナは、ルーファスが黒人奴隷のアリスを陵辱するのを止められないどころか、犯してもらわないと困る事情を抱えている。なぜなら、そうして子どもができないとデイナが存在しなくなってしまうから。
 さらに、タブーともいえる先祖殺しまで描けるのはSFならではである。


『キンドレッド ―きずなの招喚』風呂本惇子、岡地尚弘訳、山口書店、一九九二

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