読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『熱帯産の蝶に関する二、三の覚え書き』ジョン・マリー

A Few Short Notes on Tropical Butterflies(2003)John Murray

 唐突ですが、このブログの特徴をあげると、以下のようになるでしょうか(記事の質は不問。飽くまで体裁のみ)。
・海外文学、なおかつ絶版本というマイナーなものを扱っている
・更新頻度が低く、しかも不規則
・文字数が多く、改行が少ない。おまけに縦書き
・画像や映像を全く使用していない
・ブログのタイトルが平凡すぎる
・来訪者はコメントを残すことができない
・ほかのブログやウェブサイトとのつながりが全くない
SEO対策をしていない

 不人気ブログの特徴を見事に兼ね備えています。これからブログを作ろうという方は、これを悪しき見本として、真逆のことをやればよいと思います。

 ところが、作りがひどい割に、毎日そこそこアクセスがあります。そして「コメントを残せない」「相互リンクがない」「ネット上の友だちがいない」ことからも予想されるとおり、その多くは書名や著者名で検索して辿り着かれる新規の方です。
 そう考えると、もしかして前提が間違っているのかも知れないと最近になって思い至るようになりました。
 要するに「売れない売れないといわれている海外文学だけど、興味がある人は案外多いのではなかろうか」ということです。

 さて、この先はかなり飛躍した話になります。
 僕は、書籍の値段を気にせず、手当たり次第に購入するタイプです。それでいうのも何ですが、レジでお金を払いながら「こんなもん、一体、誰が買うんだろう」と首を傾げたくなる本がときどきあります(後述するが、決して悪い意味ではない)。
 しかし、当然ながら、それらにもしっかりと読者が存在するのです。

 ジョン・マリー(※)はオーストラリア出身の医師で、米国疾病予防管理センター(CDC)に勤めた後、アフリカの紛争地帯で医療に従事してきました。
 作家としては『熱帯産の蝶に関する二、三の覚え書き』(写真)が第一作品集です。ただし、WikipediaAmazonをみる限り、これ以降、本は出ていないみたい。
 作風はというと、滅多に思い出されることはなさそうなくらい特徴がありません。といって出来が悪いわけではなく、寧ろ綺麗にまとまっていて十分鑑賞に堪えるが故に、インパクトに欠けるタイプの短編集といえます(例えば、その対極にあるのがフィリップ・K・ディック山田風太郎のような作家かも知れない。色々とおかしいのに、病みつきになる)。
 原書は八編収録されているものの、日本版は頁の都合で一編割愛してあります(「Acts of Memory, Wisdom of Man」が未収録。また、原書とは収録順も異なる)。これまた微妙な感じです。

 つまり、「エンタメ以外の海外文学」「短編集」「無名の新人作家」「高価なハードカバー」「映画化されるなど話題になっているわけではない」「よくも悪くも突き抜けてない」と売れない要素が盛り沢山なわけです。
 にもかかわらず、出版社は赤字覚悟で訳本を発行し、読者はそれを涙ながらに購入しました。両者とも「派手さはないけれど、人生について深く考えさせられる短編集」を絶滅させないために精一杯頑張っているのです。実に頼もしく、美しい話ではありませんか。

 趣旨に反するので在庫のある本の紹介はしませんが、質が高かったのに絶版になってしまった本を見直してもらうために、微力ながらブログの更新を続けてゆきたいと思います。
 と、おかしな話になりましたが、そろそろ本の感想を……。

熱帯産の蝶に関する二、三の覚え書き」A Few Short Notes on Tropical Butterflies
 蝶に取り憑かれた三代の男たち。蝶の採集に熱中する余り友だちを見殺しにした祖父は、晩年、自らの指を切断し自殺します。蝶の渡りを記録するのに気を取られた父は、幼い娘を事故で亡くします。外科医の主人公は、二十歳以上も若いインド人の妻としっくりいかず、蝶とアルコールに逃げる日々を過ごしています。
 精神疾患の遺伝、慕っていた姉の死、妻の堕胎、アルコール中毒、インポテンツなど、主人公は数多くのストレスに晒されています。いずれも文学的な素材ですが、いかんせんこの短い枚数に詰め込みすぎという気がします。新人とは思えないほど読みやすく、構成も達者で、蝶にまつわる薀蓄も楽しく、破綻もないので、ひとつ軸を作って中編くらいのボリュームにしたら映画化されてもおかしくないくらい話題になったかも知れません。そうすれば、タイトルの「二、三の覚え書き」というアイロニーも、より効果的だったのではないでしょうか。

世界中の川をみんな集めて」All the Rivers in the World
 漁師の父が家族を捨て出奔して一年。息子のヴィテクは、父に会いにフロリダへ向かいます。父は、長年の夢であった事業を行うため船を手に入れ、若い女性と暮らしていました。
 ヴィテクは最初、母の立場に立ち父親を連れて帰ろうと試みます。しかし、家族のために体を酷使した父は心臓病を患い、漁に出たふたりの息子(ヴィテクの兄)を亡くし、妻の無言の圧力に二十年も耐えていたのです。父に感情移入したヴィテクは、自分の貯金で事業を援助しようと考えるのです。
 家族とは面白いもので、ときの流れとともにその立場を変えてゆきます。親とはいえど、いつか解放されるときがきますし、子どももいつか責任を負うべきときがきます。その変化を受容しようともがく人々というのが、この短編、のみならず短編集の主題かも知れません。

白い粉」White Flour
 医師の父は突然失踪し、インド人の母は夫を狂人扱いします。家族を捨てた父は、私財を投げ打ちインドで感染症の治療と予防に人生を費やしていました。そして、十五年ぶりに再会した息子に「おまえの母親を愛していた」と告げます。それどころか家を出る日、父は「一緒にきて欲しい」と母に頼んでいました。つまり、父を見限ったのはプライドの高い母の方だったのです……。
 ところで、サマセット・モームの『月と六ペンス』の主人公チャールズ・ストリックランドは、妻を愛しているか聞かれ「かけらもね」と答えます。身勝手で得体が知れず人としては最低ですが、文学的には圧倒的な存在感を誇ります。

ワトソンと鮫」Watson and the Shark
 コンゴ民主共和国との国境近くにある難民キャンプが襲撃され、傷ついた百人の難民が、外科医の私が勤める病院にやってきました。しかし、その後、病院は反乱軍に襲われ、私は肩を撃たれてしまいます。
「ワトソンと鮫」とは、鮫に襲われる少年を助けようとする人々を描いたジョン・シングルトン・コプリーの絵画です(一七七八年)。その複製が主人公の部屋に掛かっています。何を求めて紛争の続くアフリカへやってきたのかと悩む私に、同僚の医師は「鮫を退治しようとする人たちは、ワトソンを救うことで自分自身が救われるのだ」と諭します(この絵を描いたコプリーは名声を手に入れる)。
 ひとりの力で戦争を止めることはできませんが、ひとりでも多くの人の命を救うことが必ずや平和につながると考える作者の経験が生かされているのでしょう、この短編集の白眉です。

ボクサーのような大工」The Carpenter Who Looked Like a Boxer
 ボクサーのようにでかく、醜い顔をした大工のダニーは、医師である妻が家族の元を去った後、壁のなかから何かが穴を掘っているかのような音を聞きます。
 自分を妻の従順な犬のようだと感じていたダニーは「インテリの妻に捨てられることを恐れ、殺害して壁に塗り込んだ」と解釈できます。ただ、エンタメ小説ではないので、はっきりとそう書かれているわけではありませんし、何より全編が妻への愛で貫かれており狂気や恐怖を感じさせる要素はとても薄い。いや、読了後に「見方によっては不気味かも」と気づく程度に抑えた点がとても上手です。
 なお、タイトルは余り意外じゃない、というか「OLのようなナース」みたいで違いがよく分かりません。「プロレスラーのような棋士」とかなら納得なんですけどね。

ブルー」Blue
 狩猟中、銃の事故が元で死んだ父は、偉大な登山家でした。その父と同じ道を進んだサイモンは、生きていれば父の五十回目の誕生日になるはずの日にヒマラヤ登頂を目指しますが、資金が足りず父の双子の弟に頼ることになります。しかし、叔父が出した条件は、自分も一緒に山に登るというものでした。
 アンブローズ・ビアスの「例の短編」のバリエーションともいえますが、最期の瞬間、サイモンが寧ろ幸せそうにみえるのが、この短編のミソです。父の跡を継いだのが罪の意識によるものであることが明らかになり、それを認めることで、彼はようやく父の幻影から解放されます。

ヒル・ステーション」The Hill Station
 この本で唯一、女性が視点人物です。女性を描くのは今ひとつなのか、残念ながら全く感情移入できませんでした。テッド・チャンの「あなたの人生の物語」っぽいラストも、いかにも唐突という感じ。
 それにしても、多くの短編でインド人の女性が出てきます(ひょっとすると、奥さんがインド人? 一方、オーストラリアらしさは皆無)。また、七編すべてに医療従事者が登場し、夫婦のどちらかが出奔する話も多い。同じような話を繰り返し読んでいるような気がしてしまうので、短編集としてはもう少しバラエティに富んだ方がよいと思うのですが……。
 逆に「医者が主人公の短編アンソロジー」なんてのを求める人にとっては、ピンポイントでヒットしますね。

※:Murrayは、マーレイ、マレーなどとも書かれるが、今ではマリーとするのが一般的なようだ(ボブ・マーレーはMarley)。そもそも、国によっても、地方によっても、人によっても発音は微妙に異なるだろうから、正確に日本語の表記に置き換えることなど無理だろうけど……。ちなみにオーストラリアには、ジョージ・マリーの名を取ったマリー川という川がある。

『熱帯産の蝶に関する二、三の覚え書き』亀井よし子訳、ソニーマガジンズ、二〇〇五

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