Glinda of Oz(1920)L. Frank Baum
怪盗パピヨンの三巻で『オズの魔法使い』に少し触れています。これは、パピヨンシリーズのモチーフである「虹」を匂わせるようにするためでした。
実をいうと、オズシリーズで虹に関係するのは、虹の娘ポリクロームくらいなのですが、映画の「虹の彼方に」を思い出す人が多いと思ったので、取り上げてみました。
勿論、僕自身、オズシリーズが大好きなことも理由のひとつです。オリジナルのシリーズ十四作(ハヤカワ文庫)は約二十年かけて完結したため、新刊が出るのが待ち遠しかったことを覚えています(福音館のタンタンと同様、忘れた頃に出る)。
また、新井苑子の挿絵も楽しみのひとつでした。彼女のイラストでなかったら、これほど夢中にならなかったかも知れません(写真)。
さて、ここで、オズシリーズの概要を簡単に説明しておきます。
『オズの魔法使い』は十九世紀最後の年に誕生しました。同年に発表されたのが、シオドア・ドライサーの『シスター・キャリー』(ドライサーは、前回取り上げた『ラグタイム』にも登場し、本がさっぱり売れなくて悩んでたりします)。世紀転換期のアメリカを象徴するこの二作は、アメリカ文学史を語る上で欠かせない作品です。特に、オズシリーズは児童文学でありながら、文明批評としての側面も評価されています。
とはいえ、作者のL・フランク・ボームは、子どもたちを楽しませるためだけにシリーズを書き続けたと語っています。事実、オズが多くの読者を獲得したのは、それまでのヨーロッパの児童文学にありがちな説教臭さ、モラルの押しつけを排除し、エンターテインメントに徹したためでしょう。
また、豊富なキャラクターもオズの魅力のひとつです。シリーズが進むにつれ、オズの住民だけでなく、ボームのほかのシリーズからのキャラも次々に登場します。誰もが賑やかで、楽しくて、悪役なのに憎めなくて、読み進めるうちに、それぞれお気に入りのキャラができるはず。
例えば、『黒魔女さんが通る!!』を好きな子なら、絶対はまると思います。
前おきが長くなりましたが、今回はボームが書いた最後の作品『オズのグリンダ』を再読してみました。
ドロシーとオズマは、ギリキンの国の北の果てに住んでいるスキーザーとフラットヘッドというふたつの種族が戦争をするという情報を得ます。その解決に向かったところ、湖に沈んだドームに閉じ込められてしまいます。ふたりを助け出すため、グリンダは救出隊を率いるのですが……というお話で、シリーズのなかでは普通の出来でしょう。
正直、グリンダは余り活躍しません。赤毛のリーラというキャラが素晴らしいのですが、ちょこっとしか出てこないところが残念です。
さて、最後とはいえ、ボームは、これをシリーズ完結編のつもりで書いたわけではなさそうです(※)。ひとつの物語としては、きちんと閉じられていますが、シリーズ全体の幕は引いていません。つまり、オズシリーズは、未完に終わっているのです。
実をいうと、ボームは六巻目の『オズのエメラルドの都』で一度オズシリーズを終わらせています。が、子どもたちの熱烈なリクエストによって再開し、以後、毎年クリスマスの時期に、読者へ新作を届けるようになりました。
こうしたことからも、未完に終わるべく運命づけられていたわけですが、以前読んだときは、明確な終わりを持たないことを快く思いませんでした。
ちなみに、これは未完の作品全般に対して抱いていたことで、例えば、国枝史郎の『神州纐纈城』を、「未完だからこそ素晴らしい」などとはとても思えず、「あんな終わり方でいいなら、何でもできるよなあ」と考えていたんです。諸般の事情はあるでしょうが、可能な限り作者としての責任を果たすべきだと感じていました。
ところが、最近、「藤子・F・不二雄大全集」が刊行され、まとめて読み返すようになって、未完の作品に対する評価が少し変わってきました。それについては、いずれF全集が完結したとき、詳しく述べたいと思いますが、作品によっては未完の方がよい場合もあると思えるようになってきたんです(例えば、『チンプイ』は結末を描いて欲しかったけど、『ドラえもん』はあのままでよい)。
で、オズシリーズも、そのうちのひとつではないかと思うのです。
オズの住民は、病気にもならないし、歳もとらない。その上、死ぬこともありません。厄介なことが起こっても、ドロシーたちがすぐに解決してくれます。こんな幸せなお伽の国に相応しい終わりは、「人々は、いつまでも幸せに暮らしました」くらいしか考えられませんが、これでは読者が納得しないでしょう。事実、ボームが六巻でみせた結末(グリンダの魔法でオズの国をみえなくしてしまう)を、子どもたちは受け入れませんでした。
つまり、元々完結させることなんて無理なシリーズなのです。
月並みな表現ですが、物語の続きは、読者がそれぞれ想像力を働かせて作り出してゆくのが正しいあり方だと思います。
オズシリーズは、現在『オズの魔法使い』以外絶版のようですが、シリーズものというのは、当然巻を重ねるごとに売り上げが落ちるのが常なので、十四巻すべてが訳されたこと自体奇跡のようなものです。
今でも複数の出版社のものが簡単に揃えられるアンブックス(L・M・モンゴメリが由としなかった短編集を含む十冊)などは稀な例でしょう。新潮文庫から出ていた『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズなんて、いつまで待っても四巻が発行されず、どれだけ悲しかったことか……(今世紀に入って河出文庫から全五巻が発行されました。追記:この記事を書いた数日後に、別人による六作目まで出版されました)。
というわけで、ジャック・パンプキンヘッドや、ボタン・ブライト少年に会いたい方は、古本屋や図書館で探してみてくださいね。
色々思わせぶりなキーワードを入れてしまいましたが、『オズのグリンダ』は、オズマ姫の次のような科白で閉じられています。「どんな場合にも、ひとは自分のつとめを果たすのが第一ということね。それがどんなに苦しいつとめであっても」
ボームが『オズの魔法使い』を執筆したのは四十四歳のときです。僕も今月で四十四歳になります。もう少し悪足掻きしてみようと思っています。
追記:二〇一一年九月より、復刊ドットコムから、全十四作+未訳の短編集『オズの小さな物語(Little Wizard Stories of Oz)』が発行された。
※:ボームはアイディアのメモを遺し、オズの物語は、彼の死後、数人の作者によって二十六作も書き継がれ、famous fortyとして公式に認められている。しかし、それらはもう別物だろう。個人的にも、全く興味がないため、ここでは無視して考えることにする。
『オズのグリンダ』佐藤高子訳、ハヤカワ文庫、一九九四
→『魔法がいっぱい!』L・フランク・ボーム
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