In the Heart of the Country(1977)J. M. Coetzee
『ダスクランド』に続くJ・M・クッツェーの長編第二作。
二冊ともスリーエーネットワークの「アフリカ文学叢書」から発行されています。
「この作品だけ読めばいいや」という作家もいます。しかし、僕にとってクッツェーは可能な限り多くの作品を読まなければいけない作家です。
『敵あるいはフォー』のときにも書きましたけど、南アフリカの作家だけあって「支配する者の暴力と支配される者の自由」という共通するテーマがあるような気はします。また、一人称で書かれることが多いという特徴もあります。けれど、作品によって、手法も舞台も人物造形も大きく異なるため、ひとつふたつ読んだだけでは全貌が把握できません。
いや、全部追い掛けても、僕なんかに大したことは分かりません。それより、どれも面白くて、ついつい新刊が出るたびに買い求めてしまうのです。幸いなことに、今も継続的に新訳が発売され続けているので、飢えずに済んでいます。
さて、クッツェーは『鉄の時代』以降、技巧に頼らないリアリズム小説を書くようになりましたが、初期は実験的な作風が多く、『石の女』(写真)もなかなかの難物です。
南アフリカのカルー(赤茶けた大地)にぽつんと一軒だけある農場。そこに住む偏頭痛持ちのオールドミスであるマグダが語り手。父親と召使いとともに暮す彼女は、外部とほとんど接触しません。
そんなマグダのモノローグと妄想が、二百六十六の断章によって綴られます。
形式云々よりも、まずはマグダの独白の異様さに面食らうと思います。
例えば、この小説は、父親が新しい花嫁を連れて帰ってくるシーンから始まります。やがてマグダは、父と後妻を斧で惨殺するのですが、それは彼女の妄想であることが分かります。が、それどころか、後妻の存在すら現実ではないのです。
そのため、物語の中盤で、マグダが散弾銃で父親を撃ったのが現実なのか、読者にはしばらく分かりません。
いわゆる信頼できない語り手ですが、欺瞞に満ちた自己正当化を楽しむというのとはちょっと違います。マグダの場合、嘘の比率が圧倒的に高く、虚構性を強調する役目の方が大きいように思えるからです。
要するに「どこからが本当で、どこからが嘘?」と悩んでから、ふと気づく。「そもそも小説なんて、すべて作者の嘘じゃないか」と……。
そう考えると、番号のつけられた断片も、似たようなシーンが何度も繰り返されることも、大いに意味のある仕掛けなのです。
いや、勿論、エディプスコンプレックスが主題のひとつではあると思います。圧倒的な権力を有する父親に抑圧された、醜く病弱で孤独な娘の「心の奥」は読むのが辛くなるほど痛々しい。
マグダは、歳を取って萎びた白い男根を切り落とし、黒く逞しい男根に体を貫かれるのですが、これは精神を病んだ処女が長年夢みてきたことかも知れません。やがて、彼女は真の孤独(自由)を手に入れ、神と交信することになります。
常軌を逸した果ての美しく儚いラストシーンです。
ただし、違和感が残るのも確かで、その理由は、これを書いたのが「白人」の「男性」であるクッツェーだからでしょう。彼は女性の一人称を用いることが多いのですが、このテーマで読者に感情移入を促すのはさすがに難しいと思います。
次作の『夷狄を待ちながら』は、辺境、夢現のモノローグという共通点があります。しかし、語り手が初老の男だけあって、すんなりと受け入れられるんですよね。
だからこそ、虚構性を前面に押し出した手法を用いたのかも知れません。
それによってマグダの個人的な運命は、弱者の自由と責任という問いに変換されたのではないでしょうか。
クッツェーは、後にエリザベス・コステロという架空の女性作家を産み出しましたが、狙いはこれに近いような気がします。
……と思ったのですが、よく考えると『アフリカ農場物語』のオリーヴ・シュライナーはラルフ・アイアンという男性名を、『アフリカの日々』のカレン・ブリクセンはイサク・ディーネセンという男性名を、それぞれ使用しました。
勿論、僕は、ふたりが女性であることを知って読みましたけど、リアルタイムで読書した人は、果たして違和感を覚えたんでしょうか。興味があります。
『石の女』村田靖子訳、スリーエーネットワーク、一九九七
→『敵あるいはフォー』J・M・クッツェー