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読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『敵あるいはフォー』J・M・クッツェー

Foe(1986)John Maxwell Coetzee

 南アフリカ出身の作家ジョン・マクスウェル・クッツェーの『敵あるいはフォー』の原題である『Foe』とは、ダニエル・デフォーの本名でもあり、「敵」という意味もあります。また、この作品は『ロビンソン・クルーソー』だけでなく、同じデフォーの『ロクサーナ』も題材にしています。

 まず、1章では、無人島に漂流したスーザンが、ロビンソン、フライデイと出会い、ともに生活をし、やがて商船に救われ、イギリスに戻るまでが描かれます。
 この小説のロビンソンは日記もつけず、日数も数えず、過去の記憶も曖昧な老人です。島から脱出する気などさらさらなく、今の生活に満足しています。そして、救いの船のなかで、絶望のため命を落としてしまいます。これは、デフォーの精力的なロビンソンとは正反対の、仙人のようなロビンソン像です。
 また、フライデイは、舌を切られているため話すことができず、言葉も習っていません。そのせいで、スーザンの世界とは完全に切り離された存在となっています。
 実をいうと、既にクッツェーは、『マイケル・K』(一九八三)で、自由を求め世捨て人となるカラードの人物を登場させています。ロビンソンとフライデイの背後には彼の姿が、みえ隠れしています。

 一方、スーザンは、上昇志向の強いロクサーナそのものです。
『ロクサーナ』では、自分の子どもが足枷になったことによって悲劇が生まれましたが、この小説でも、スーザンは、娘が誘拐されたことをきっかけに無人島に流されましたし、嬰児の遺体や、自らの分身と思しき少女の幻影に悩まされたりします。

 さて、2章は、イギリスに帰ったスーザンによる、フォー(デフォー)への手紙で構成されます。
 文才のない彼女は、貴重な体験を小説として出版してもらおうと企みます。しかし、フォーは、執行吏に追われ、姿をくらませてしまいます。
 最初は名声を得ることを目的としていたスーザンでしたが、次第に興味は、それまで獣としか思っていなかったフライデイの心のなかに移ってゆきます。

 続く3章では、スーザンとフォーの対話を経て、フライデイが言葉を獲得してゆく様が描かれるのですが、最終章において、突如、舞台も語り手も変わってしまうのです。

 一言でいうと、非常に難解な小説です。
 手がかりは山ほど用意されているのですが、何をどう解けばよいのか分からず、途方に暮れるといった感じでしょうか。
 読者によって読み方は大きく異なると思いますが、僕としては、これまでのクッツェーの作品にみられた「支配する者の暴力と支配される者の自由」といったテーマに注目してみたいと思います。

 例えば、先述したマイケル・Kは、バートルビー的な人物でしたが、少なくともロビンソンのように自ら命を絶つことはなかったし、フライデイと異なり言葉を持っていました。
 そう。この作品のキーワードは、やはり「言葉」であると思います。

「言葉のないフライデイには、自由の意味も分からない」というスーザンに対して、フォーは、
「自由の意味なんて我々は知る必要などないんだよ(中略)それは君が話している願望、解放されたいという願望につけた名前に過ぎないんだよ」
「もし我々が、『自由』とか『名誉』とか『至福』というような偉大なる言葉をはめ込むのにぴったりの穴を見つけることに夢中になったなら、そうだ、一生を滑ったり転んだりしながら探して過ごして、結局は何もかも無駄になるに決まっている」
と語ります。
 つまり、フォーにいわせれば、言葉を持たないフライデイこそが、真の自由を獲得する資格を持っているといえるのです。

 また、そのセリフは、フォー、そして作者自身に跳ね返ってきます。
 小説を書くことは「他人の話を受け入れて、それをきれいに装飾して世の中へと送り返す」売春行為にすぎないかも知れない。
 果たして、そこから、何か意味のあるものが生まれるのだろうか。
 デフォーの時代から何百年経とうが、こうした悩みを持たない作家は、恐らくひとりもいないでしょう。

 この作品が、自己言及のフィクション(メタフィクション)の体裁をとっているのも、最終章でクッツェーらしき人物が現れるのも、そう考えると納得です。

『敵あるいはフォー』本橋哲也訳、白水社、一九九二

→『石の女J・M・クッツェー

ロビンソン・クルーソー』関連
→『フライデーあるいは太平洋の冥界』『フライデーあるいは野生の生活』ミシェル・トゥルニエ
→『前日島ウンベルト・エーコ
→『宇宙人フライデー』レックス・ゴードン
→『ピンチャー・マーティンウィリアム・ゴールディング