読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ニックとグリマング』フィリップ・K・ディック

Nick and the Glimmung(1988)Philip K. Dick

 二十一世紀になってから、フィリップ・K・ディック原作の映画が毎年のように公開されています。今年はいよいよ『ブレードランナー2049』が封切られ、それに伴い第何次かのディックブームがやってくるかも知れません。
 このブログでは人気作家を滅多に取り上げないのですが、折角の機会なので便乗しようと思います。

 ディックは、ブームが訪れるたびに未訳の作品が刊行されてきたという経緯があります。しかし、SF作品については既に粗方出揃っているため、余り期待はできません。
 逆にいうと、これからディックの全作品を集めようとする方にとっては、とても恵まれた状況にあります。
 何しろ彼のSF小説は、ほとんどが文庫で揃えられるのです。また、人気作家故に発行部数(増刷)が多く、サンリオSF文庫やソノラマ文庫海外シリーズでさえ高値はついていません。そのため、絶版の本も含め、あっという間にコンプリートできるでしょう(※1)。
「いや、別に全部集めるつもりなんてないし……」と突っ込みたくなるかも知れませんが、ディックは一冊でも気に入ると「すべての作品を読まなくちゃいけない!」と思わせる不思議な作家です。そのため、まずは現時点で最も効率的な収集方法を示したいと思います。

 短編は百二十三編あります(※2)。
 二〇一四年にハヤカワ文庫の「ディック短篇傑作選」全六冊が完結したことで、後に長編化された短編を除く百十七編が翻訳されたことになります。
 一冊も所持していない人が、今からすべて集めるには、以下の十七冊の組み合わせが最も冊数を少なくできます(文庫本を優先する場合。なお、「世界のすべては彼女のために」のみ『PKD博覧会』というムックに収録されている)。

『地図にない町』(ハヤカワ文庫NV)
『シビュラの目』(ハヤカワ文庫SF)
『アジャストメント』(ハヤカワ文庫SF)
トータル・リコール』(ハヤカワ文庫SF)
『変数人間』(ハヤカワ文庫SF)
『変種第二号』(ハヤカワ文庫SF)
『小さな黒い箱』(ハヤカワ文庫SF)
『人間以前』(ハヤカワ文庫SF)
『ザ・ベスト・オブ・P・K・ディックII』(サンリオSF文庫)※『時間飛行士へのささやかな贈物』(ハヤカワ文庫SF)でも可
『ザ・ベスト・オブ・P・K・ディックIII』(サンリオSF文庫)Amazonでの取扱いなし。『ゴールデン・マン』(ハヤカワ文庫SF)でも可
『ザ・ベスト・オブ・P・K・ディックIV』(サンリオSF文庫)※『まだ人間じゃない』(ハヤカワ文庫SF)でも可
『模造記憶』(新潮文庫
『人間狩り』(ちくま文庫
『宇宙の操り人形』(ちくま文庫ソノラマ文庫海外シリーズ版は収録作が異なるため不可
ウォー・ゲーム』(ちくま文庫ソノラマ文庫海外シリーズ版は収録作が異なるため不可
『ウォー・ヴェテラン』(現代教養文庫
『PKD博覧会』(アトリエサード

 一方、長編の方は、二〇一五年にSFでは最後の翻訳作品『ヴァルカンの鉄槌』が出版されたことで、『ユービック:スクリーンプレイ』を含む三十六作が揃いました。
 こちらも『ニックとグリマング』を除くすべてが文庫で揃います。ただし、『The Unteleported Man(Lies, Inc.)』は、『テレポートされざる者』と『ライズ民間警察機構』という底本の異なる二種の翻訳が出版されているため、注意が必要です(構成を含めてかなり異同があるので、両方入手した方がよい)。

 メインストリームの長編小説は、現在五作が翻訳されています。
 こちらはまだまだ未訳の作品が多いので、今後に期待したいと思います。

 ところで、ディックには、聞いてもいないのにマイベストを語り出す熱狂的ファンが沢山います。
 かつて「SFマガジン」誌上でPKD総選挙なるものが催されたこともありました。一家言を持つ人がいかに多いかと吃驚しましたっけ。

 もうひとつ、ディック信者の特徴は、ビギナーが最初に読むべき作品について云々することです。
 どうしてそんな余計な世話を焼くかというと、ディックには、とんでもなく突っ込みどころの多い作品が相当の割合で混じっており、「それらも含めてディックの魅力だ」ということを知らない初心者が、破綻している作品に最初に手を出してしまうと、とば口で引き返してしまうことになり兼ねないからです。
 ディックは一、二冊読んで見限るには勿体ない作家ですから、これから挑戦してみようと考えている方は、ぜひ先輩たちの声に耳を傾けて欲しいと思います。

 というわけで、僕がお勧めする「ディック、初めての一冊」は『ニックとグリマング』(写真)です。
 児童書ということもあって、とても読みやすく、それでいてディックらしさ(後述)が詰まっています。また、長さも中編程度なので入門書としては最適だと思います(新本として入手できないのが難だが、このブログは絶版本を扱うのでやむを得ない)。

 ところで、『ニックとグリマング』が刊行されたのはディックの死後ですが、執筆は一九六六年です。この年には何と『ユービック』『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という二大傑作(※3)が書かれています。
 しかし、児童向けであることが災いし出版には至らなかったため、ディックは設定やキャラクターを別の作品に流用しました。それが『銀河の壺直し』(1969)です。ストーリーは全く異なりますが、共通点が多いので、セットで読むとより楽しめます。

『ニックとグリマング』のあらすじは以下のとおりです。

 人口過剰な地球では、仕事もなかなかみつからないし、一軒家も持てないし、ペットも飼えません。ニコラス・グレアム少年がこっそり飼っていた猫のホレースをみつけられたのをきっかけに、グレアム一家は揃って未開の惑星「農夫の星(プラウマンズプラネット)」に引っ越すことにしました。
 ところが、農夫の星では、奇妙な生物たちがふた手に分かれて戦争をしていました。グリマングをリーダーとするワージ、トローブ、オトウサンモドキたち、それに対するのは大いなる四種族(フクセイ、ナンク、スピッドル、人間)です。ニックたちも、彼らの争いに巻き込まれてしまいます。

 ディックの魅力は沢山ありますが、この本では「一体どこへ運ばれてゆくのか分からず、ドキドキする感じ」や「誰もが突っ込みたくなる変な設定」を十分に味わえます。
 また、ディックは、子どもでも知っているSFのガジェットをふんだんに取り入れることでも知られています。アンドロイド、ロボット、飛行艇、光線銃などはSFが苦手な方でもついてこられますし、僕のようなおっさんにとってはレトロフューチャーとしても楽しめます。
 で、『ニックとグリマング』はというと、児童書だけあって宇宙生物の宝庫です。

 ディックは、ユーモラスな架空の生物を結構な数、創造しており、代表的なものとして「ウーブ身重く横たわる」のウーブ、「フヌールとの戦い」のフヌールなどが挙げられます。
『ニックとグリマング』に登場するグリマング、スピッドル、ワージ、ナンク、ウーブ、フクセイ(プリンター、ビルトング)、オトウサンモドキなども、それらに負けず劣らずユニークな存在です。
 ウーブ、フクセイ、オトウサンモドキは短編にも登場しますし(ウーブは『ザップ・ガン』にも出てくる)、それ以外の生物の多くは『銀河の壺直し』にも出てきますが、『ニックとグリマング』の世界においてほど愛らしくはありません。

 例えばウーブは短編では、碩学で、テレパシーを用いる饒舌な生きものでした。ところが『ニックとグリマング』では簡単な文章が書かれた紙を複数枚持っていて、それで会話をします。前者がかなり嫌な奴なのに、後者は憎めないマスコットみたいな存在です。
 短編「父さんもどき」では恐ろしかったオトウサンモドキも、ニックの世界では、なぜか人間を食い殺さず、ホレースを返してくれたりします。フクセイは「くずれてしまえ」と同じくプディング化された複製しか作れませんが、グリマングを倒すため重要な働きをしてくれました。ほかにも『銀河の壺直し』ではチョイ役のスピッドルやワージも存在感を増しています。

 逆に、タイトルに名前が入っている癖に、グリマングの出番は極端に少なくなっています。
 大切な『ある夏の日』という書籍を間違ってニックに渡してしまうのも間が抜けていますし、自分の偽者にあっさりとやられてしまうのも哀れです。彼にとっては『銀河の壺直し』の方が遥かに居心地がよいでしょうね。

 そういえば、『銀河の壺直し』で、壺類修復職人(Pot-Healer)のジョー・ファーンライトは、物語の最後に自ら新しい壺を作るようになります。
 これは「採用されなかった古い壺(『ニックとグリマング』)を直したのではなく、全く新しい壺(『銀河の壺直し』)を製作した」とも読めるではありませんか。

 勿論、『ニックとグリマング』は修正が必要なほど質が悪いわけではなく、ただ単に児童向けでは売れないと判断され、出版してもらえなかったのでしょう。
 ディック本人は不本意だったでしょうが、彼の死後、プラウマンズプラネットにあるマーレイノストラムの海中から引き上げられたもうひとつのヘルズコーラ大聖堂は、ファンにとって最高の贈りものになりました。

 というわけで、僕がお勧めする「ディック、初めての一冊」は『ニックとグリマング』で決まりとして、当然ながら「推しメン(最も好きな作品)」は別にあります。
 ベストワンを選ぶのが難しい作家もいますが、ディックの場合、ほとんど悩まず一冊に決められます。それくらい図抜けて出来のよい長編があるのです。
 が、それについては、またの機会に取り上げたいと思います。

※1:サンリオSF文庫で刊行が予定されていたのに結局叶わなかった『さあ、去年を待とう(去年を待ちながら)』や『ザップ・ガン』は、後に創元SF文庫から出版された。一方、他社で復刊されなかった『シミュラクラ』『銀河の壺直し』『怒りの神』はやや古書価格が高い。

※2:短編の数は、数え方にもよる。例えば「ハーラン・エリスン編『危険なヴィジョン』向きの、すべての物語の終わりとなる物語」を含め、『宇宙の操り人形』より長い「A Glass of Darkness」を含めないと百二十三編になる。そのうち、未訳は以下の六編。いずれも後に長編の素材となった短編である。
「Time Pawn」→長編『未来医師』
Vulcan's Hammer」→長編『ヴァルカンの鉄槌』
「Novelty Act」→長編『シミュラクラ』
「The Unteleported Man」→長編『テレポートされざる者』
「Chains of Air, Web of Aether」→長編『聖なる侵入』
「A Terran Odyssey」→『ブラッドマネー博士』

※3:PKD総選挙では、『ユービック』が一位で、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が二位だった。ちなみに『ニックとグリマング』は二十二位。


『ニックとグリマング』菊池誠訳、筑摩書房、一九九一

Amazonで『ニックとグリマング』の価格をチェックする。