読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『黄泥街』残雪

黄泥街(1986)残雪

 僕は、残雪と同じ誕生日(五月三十日)なので、勝手に親近感を抱いています(ナベツネとも同じだが、それはどーでもいい)。
 莫言が二〇一二年にノーベル文学賞を受賞したとき、日本においてさえ「村上春樹じゃねーのかよ」より、「残雪じゃねーのかよ」という声の方が遥かに大きかった……ように思うのは僕だけでしょうか。
 ま、いずれにせよ、評価の高さとは裏腹に、残念ながら日本ではほとんどの本が絶版で、現在新本で入手可能な小説の単行本は『暗夜』(池澤夏樹個人編集 世界文学全集)のみ。これは初期から最近まで幅広い年代の短編を集めたベストセレクションですから入門書としても最適なので、長く売り続けてもらいたい。
 一方、二冊しか翻訳されていない長編小説『黄泥街』と『突囲表演』が、いずれも入手困難なのが残念です(中編『蒼老たる浮雲』は日本語にして百三十頁以上ある。が、これも絶版)。

 残雪は、評価も人気も高いからといって、覚悟を決めずに楽しめるような作風ではありません。いわゆる不条理文学、幻想文学(※1)で、フランツ・カフカ、サミュエル・ベケット安部公房らと比較されることが多いそうです(個人的には、つげ義春倉橋由美子を連想してしまう。アンナ・カヴァンカフカに傾倒した女流作家だが、残雪とは類似点が少ないように思う)。未読ですが、残雪は『魂の城 カフカ解読』という評論集も刊行しており、影響を受けていることは間違いないでしょう。
 しかし、残雪の小説の謎の量と多様さは、カフカの比ではありません。何から何まで分からないことだらけで、突っ込み出すとキリがないのです。
 特徴としては、普通の小説なら当然書かれているべきことが「さり気なく書かれていない」点にあるでしょうか。また、構成も少々変わっていて、例えば、「最近、あの男は全く姿を現さない。一体、どうしたのだろう」といった記述の直後に「あの男が久しぶりに訪ねてきて」しまったりします。
 それ故、読者は戸惑い「わけが分からない!」と嘆くことになるわけですが、首をひねりながらもまた読みたくなってしまうところが魅力といえます。

 その残雪の処女長編が『黄泥街』(ホアンニーチエ)です(※2)。
「栴檀は双葉より芳し」といいますが、この頃から意味不明……と書いては終わってしまいますから、取り敢えず「あらすじらしきもの」を記載してみます。

 黄泥街は、奇妙な現象・人々・風習に満ちています。空からは真っ黒な灰が常に降り、ものは片っ端から腐り、動物や人々の気は狂い、S機械工場は鉄の玉を生産し続けるのです。
 あるとき、王子光と呼ばれる、光だか人間だか分からないものがやってきます。それをきっかけにますます奇妙なことが起こります。どうやら大きな問題が発生しているらしいのですが、それが何なのかは読者は勿論、町の住人にも見当がつきません(立退きの噂が流れたりする)。
 そのうち、黄泥街は徐々に変質してゆき、やがて消滅してしまいます。

 暑く臭く汚く混沌とした黄泥街は、まるで不快さの見本市のよう。
 糞便、腫瘍、毒、死骸、虫などありとあらゆる不潔なもので埋め尽くされています。裏切りが横行し、住民は常に何かに怯え、自分たちが上部に見捨てられたと感じています。老人や赤子は虫ケラのようにくたばり、その死を悲しんでもらえるどころか、死体はゴミのように捨てられてしまいます。

 街を構成する人やものも曖昧で、例えば、王子光とは何者なのか、そもそも彼は実在しているのかどうか、住民たちでさえ分からないのです。
 発せられた言葉は、人々の口を伝ってゆくものの、実体は伴わず、やがて意味すら失ってしまいます。

「この物語は、一体、何を意味するのか」という疑問より先に、読者はこう思うのではないでしょうか。「なぜ、このような毒々しく得体の知れない街が、若い女性によって産み出されたのか」と。

 それを読み解く鍵となるのは、やはり残雪自身の体験にあるように思えます。
 革命家の父を持つ残雪は、幼い頃から迫害され、一時は中学にも通えず父の監獄近くでひとり暮らしをさせられていたそうです。十八歳から二十四歳までは、S機械工場のモデルとなった銀盆機械廠に勤めていました。
 その期間は、文化大革命の真っ最中でした。最も多感な時期に経験した不条理な悪夢が、このグロテスクな世界の元となっているのでしょう。
 実際、作中では住民たちの声を借り、「千万人百万人の首が落ちる」「由緒ある革命根拠地の伝統を発揚する」「同志諸君、目下の情勢はすばらしい!」といった政治的な皮肉が繰り返されます。

 残雪は、最初、これをリアリズムの手法で描こうとしたものの、すぐに断念したそうです。初期の構想がどんなものだったのかは分かりませんが、幻想の衣で包む作戦は、以下の理由から大成功だったといえます。
 ひとつは、処女作にして個性的なスタイルが確立されたこと。もうひとつは、あからさまな文革批判を避けたがために、世界的な評価を得られたことです。下手をしたら、折角の文学的才能が無惨に潰されていた虞すらあったのですから、大変幸運だったと思います。
 所詮、革命やクーデターなんて幻想にすぎません。不条理を、不条理で表現するのは、ある意味、自然なのでしょう。

 文革という狂気が生んだ幻の街「黄泥街」は、だから「わたし」の記憶のなかだけに存在します。当然ながら、誰に聞いても「そんな場所は知らない」といわれてしまいます。
 それでも、語り手は、黄泥街を、まるで桃源郷のように探し続けるのです。
 普通に考えれば、忌まわしい記憶など葬り去りたいはずです。にもかかわらず、あの街を執拗に追い求める理由は、那辺にあるのでしょうか。

 残雪の作品ですから全然自信はないのですが、もしかすると、その目的は過去の自分を弔うことにあるのかも知れません。
 ゴミ溜めのような街で必死に生き、革命の犠牲になり徒死した弱者たち。彼らに自らを投影し、幻だと承知していながらも会いたい、呪われた過去を清算したい、と願ったのではないでしょうか。
 しかし、醜悪な人々との再会はついに叶わず、道端には小さな青い花がひっそりと咲くばかりでした。

※1:残雪自身は、自らの小説を「新実験小説」と称しているらしい。

※2:「黄泥街」は、目次等には「ホアンニーチエ」とルビが振ってあるが、奥付は「こうでいがい」となっている。日本語の書名としては、こちらの読みが正式なのだろう。


『黄泥街』近藤直子訳、河出書房新社、一九九二