読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ブラッド・スポーツ』ロバート・F・ジョーンズ

Blood Sport: A Journey Up the Hassayampa(1974)Robert F. Jones

 どんな趣味においても、人は経験を増すにつれ知名度の低いものを偏愛する傾向があります。知られていないものを好むのは、知識の広さを誇ったり、普通の人が評価しないものの価値を認めるという優越感に浸れるからでしょうか。
 反対に、誰もが知っているものをお気に入りにするのは少々恥ずかしい。例えば「好きな海外文学は?」と聞かれて「フランツ・カフカの『城』とガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』です!」と答えるのは相当な勇気が必要となります。

 僕はというと、海外文学は好きだけど、どのジャンルも大して詳しくはないのでマイナーな作家や作品はほとんど知らない。かといって、流行りものは読む気がしないという厄介なタイプです。
 ですから、これまでこのブログで紹介してきた書籍は、絶版ではあるものの、そこそこ名の知れたものばかりでした。

 そんな僕の唯一の隠し球といえるのが、ロバート・F・ジョーンズの『ブラッド・スポーツ』(写真)です。
 ほかに類をみないほど個性的で、体中が痺れるほど刺激的で、時代を超越した新鮮味がある。おまけに訳文も素晴しい。
 にもかかわらず、少数の熱狂的な信奉者を生んだわけでもなく、それどころか今も昔も話題になった記憶がありません。訳者によると「アメリカ文学を専門に研究しておられる方でさえ、ロバート・F・ジョーンズの名前は大半がご存じないだろう」とのことです。
 いわば、カルトになりきれなかった小説といえます。

 だからこそ、知ってるといわれる可能性が著しく低い。
 ごく稀に「何となく聞いたことがある」という人もいますが、「グレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』と間違えてない?」と聞くと、大抵は「そっちかー」となります(ちなみに、この二冊は訳者が同じ)。

 なお、「ブラッドスポーツ」とは、闘牛や闘犬など動物を戦わせたり、いじめたりするのを観戦するスポーツのことで、広義には血が出る狩りや釣りなども含まれます。
 しかし、その意味を知らないと「血の出るスポーツってことは格闘技だろう」と思われてしまい兼ねません。現に、この本の邦訳が出版される数年前にジャン=クロード・ヴァン・ダム主演の『ブラッド・スポーツ』という格闘技の映画が公開されています。
 勿論、この小説は空手やボクシングなどとは無関係ですから、寧ろ副題の方を大きくした方がよかったかも知れません。ある意味、ハサヤンパ河こそが『ブラッド・スポーツ』の主役ともいえるからです。

 ごく短い章の連なりによって釣りについて語られるので、一瞬、リチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』を思い出しますが、すぐにそれとは全くの別物であることが分かります。
 何しろハサヤンパ河(沙陽河)とは、中国の奥地が源流で、ウィスコンシン州をとおってニューヨークへ至る大河であり、流域には山賊はいるし、マストドン、オーロックス、剣歯虎、ユニコーンまで棲息しているのです。
 父と息子は釣りや狩りをしながら、水源地であるアルティン・タグ連邦を目指します。しかし、途中で息子は父の元を離れ、山賊の首領ラタノウス(ラットノーズ)一味に加わります。息子を殺されたと勘違いした父は、復讐の鬼になるのですが……。

 ジョーンズは「スポーツ・イラストレイテッド」の記者だっただけあって、釣りや狩猟の描写は真に迫っています。道具の準備をし、作戦を考え、冷静に実行に移すといった流れは、一流のスポーツ選手のように美しい。
 それだけでも立派な冒険小説になったでしょうが、『ブラッド・スポーツ』の凄い点は、そんなことはどうでもよくなるくらいショッキングな記述が次々と現れることです。血みどろの残虐行為、人種差別、女性蔑視、動物虐待、強姦、乱交、ドラッグ、カニバリズム、スカトロジーなどなど正にやりたい放題。
 様々なものに配慮し、妙に大人しくなっている最近の文学とは明らかに異なる異様な迫力があります。文学に良識を求める人は手を出さない方が無難ですが、刺激を求める冒険者なら読んでおいて損のない作品です。

 小説の結構も自由気侭です。
 現在の描写の合間に、大して関連のなさそうな過去のエピソードが頻繁に挟み込まれるのはまあよいとして、それまで固有名詞を持たなかった父と息子に、終盤になって唐突にティルカット(切られるまで)とランナーという名前がついたりします。それに、いかほどの効果があるのか分からないところが、さらに素晴しい。

 と、まあ、色々とぶっ飛んでいますが、これが父と息子の絆を描いたロードナラティブであることもまた事実です。

 第一部で息子は、父親が指示したとおりに狩りや釣りをします。親子の対話もあり、関係は極めて良好にみえますが、途中から、やや反抗的な態度をみせるようになります。
 第二部になると、息子は父から逃げ出し、通過儀礼の如くラットノーズ(ヘルズエンジェルズモーターサイクルクラブとかヒッピーコミューンみたいなもの)の元へ走ります。最初はひどい仕打ちを受けますが、でかいバイクを巧みに乗りこなしたことで仲間の信頼を勝ち得ます。勿論、セックスもたっぷり経験します。
 しかし、ラットノーズの女と寝たことにより彼の恨みを買い、また、殺人鬼と化した父親と対峙しなければならなくなります。
 第三部は、息子を巡って父親とラットノーズが決闘します。父が勝てば文明社会に戻り、ラットノーズが勝てばコミューンに残ることになります……。

 こう書くと、正にアメリカ文学の王道のように感じるのではないでしょうか。
 その印象は間違っておらず、奇抜な外見に騙されそうになりますが、実際は真面目なテーマと、非常に読みやすく正確な描写力を備えた質の高い文学です。
 アーネスト・ヘミングウェイの「ニック・アダムス」もの、あるいはロバート・M・パーシグの『禅とオートバイ修理技術』(『ブラッド・スポーツ』と同じ一九七四年に刊行された)と比較したって、強ち見当外れではないのです。

 一方で、カルト小説になり得なかったのは、その「まともさ」故かも知れないと思えます。文体も主張も支離滅裂だったら、もしかすると別の種類のファンを生んでいたかも知れません。
 とはいえ、出鱈目そうでいて、案外まともであってくれたお陰で、知る人ぞ知る作品になったわけで、僕としてはその方がよかったですが……。

 なお、「訳者あとがき」には「かなうことならば、この作品を愛してくださる読者の方が生まれ、この時代の埋もれた作品がもう少し発掘されることを願いたい。怪作も、感動的小品も、まだまだあるのだから」と書かれています。
 ぜひお願いします!

『ブラッド・スポーツ ―ハサヤンパ河を遡る旅』小川隆訳、福武書店、一九九一

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