読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『第三の警官』フラン・オブライエン

The Third Policeman(1967)Flann O'Brien

 二冊目のフラン・オブライエンです。

『第三の警官』は、オブライエンの死後、出版されましたが、作品自体は一九四〇年には既に完成していました。
 オブライエンの最高傑作ともいわれるにもかかわらず、どうして、こんなに発行が遅れたのでしょうか。
 その理由は、内容とは無関係で、第一作の『スウィム・トゥー・バーズにて』が商業的に惨敗したからといわれています。何でも処女作はダブリンにおいて半年に二百四十四冊しか売れなかったらしく、そのせいで『第三の警官』は、お蔵入りとなってしまいました。

 その後、オブライエンは、マイルズ・ナ・ゴパリーンという筆名のコラムニストとして活躍し、次にオブライエン名義の単行本が出たのは二十年以上後、一九六一年の『ハードライフ』でした。
 これは『スウィム・トゥー・バーズにて』とよく似た設定(伯父との同居、イエズス会をからかう伯父、パブで酔って嘔吐など)なのですが、ヘンテコさはちょっと違います。
 伯父に引き取られた兄弟、その弟の方が視点人物となり、商才に長け様々な儲けの手口を考え出す兄と、何やら秘密のプロジェクトを計画している伯父を交互に観察してゆきます。
 決して詰まらない小説ではありませんが、半分くらいは日本人にとっては馴染みの薄い宗教談義である点、主人公の影が薄く、彼の精神的成長を描くわけでもない点、さらには目新しい技法を用いていない点が「並の作品」という評価につながっているような気がします。

 その後、一九六四年には起死回生の作『ドーキー古文書』が発行されましたが、結局、オブライエン名義の長編小説は、この四作のみとなりました(『ドーキー古文書』は、いずれ感想を書くかも知れないので、今は何も触れずにおく)。

 話を『第三の警官』に戻すとして、まずはあらすじから。

 同居している使用人ディヴニィにそそのかされ、金を奪うため、裕福な老人を殺害する「ぼく」。
 ほとぼりがさめた頃、金庫を取りに老人の屋敷に忍び込んだ「ぼく」は、死んだはずの老人と再会しました。
 その後、金庫の在処を尋ねるため、警察署に向かいます。そこには、巡査部長のプラック、マクリスキーン巡査がいて、「ぼく」は老人殺しによって絞首刑にかけられることになります。
 やがて、自転車に乗って脱走した「ぼく」は、第三の警官であるフォックスに捕まってしまいますが、上手く逃れ、自分の家に帰ることができました。しかし、そこにいたディヴニィは……。

 現代の読者であれば、この小説が何を隠しているか、簡単に分かってしまうでしょう。
 とはいえ、興味を削ぐことにもなり兼ねませんから、ここでは、なるべくぼかすか、一部を反転文字にして記述します。そのため、事実とやや異なる箇所が出てきてしまう点は、お許しください(ただし、このブログの別の記事ではネタバレを記述している)。

 何の恨みもない老人を罪の意識もなく殺害するところは、フョードル・ドストエフスキーの『罪と罰』のような感じですが、この小説の場合、あっという間におかしな方向へいってしまいます。
 語り手は、一種のワンダーランドに迷い込み、それ故、この作品は幻想小説や奇妙な味に分類されるようです。
 しつこいくらい自転車を中心としたナンセンスなやり取りは、『不思議の国のアリス』の大人版といった感じで、とても楽しく読むことができます。

 勿論、それも『スウィム・トゥー・バーズにて』と同じく虚構性の強調にほかなりません(この作品にも「紛うかたなき紛い物」というフレーズが出てくる)。
 ただし、前作と異なるのは、語り手の「ぼく」が、不思議な世界に戸惑っていることです。彼は、何かおかしいということには気づくものの、まさか自分が現実の世界から逸脱してしまったなんて夢にも思いません。

「出会う人は明らかに変だし、景色もいつもと全く違う。おまけに自分の名前すら思い出せなくなっているのに、気づかないなんてあり得ない」と思うかも知れませんが、元々「ぼく」はネジが一本緩んでいるような男なので、余り違和感はありません。
 彼は、三十歳をすぎているのもかかわらず世間知らずで、余り外出せず、ド・セルビィなんていう変な思想家(?)の研究をしています。大体、殺人自体、上手く乗せられて犯してしまったくらい間が抜けているのです。

 いや、そもそも異世界に迷い込んだことを容易に受け入れるなんて、物語のなかの登場人物だからこそ可能でしょう。
 僕らがもし同様の体験をしたら、パニックを起こすか、全てを否定しようとするのではないでしょうか。
 そういう意味で「ぼく」は、この小説において唯一虚構性の薄い人物といえるかも知れません。

 当然ながら、それがラストに強烈な効果を齎します。
「ぼく」は、リップ・ヴァン・ウィンクルや浦島太郎とは違い、不思議な世界におけるストレンジャーなどではなく、そこの正統な住人であることが明らかにされます。
 しかも、それは奇妙でおかしい冒険どころか、大罪を犯した彼を罰する無間地獄であり、自転車のタイヤのようにぐるぐると回り続けるのです。これほど恐ろしい話は、そうそうありません。

 ただし、繰り返しますが、現代において、このオチは明らかにみえみえで衝撃は小さい。それもあって、僕は『スウィム・トゥー・バーズにて』こそオブライエンのベストと考えてしまうのですが、その見方が正しいという自信はありません……。
 というのも、オブライエン自身、ウィリアム・サローヤンに宛てた手紙のなかで「始めから終りまで死んだっきりの男という趣向はかなり目新しいものだと思います」と語っています(※)。つまり、当時、斬新だったものを、現代の感覚で「古い」と評価してはいけないのではないか、という気もするのです。

 けれど、『第三の警官』以前も、マシャード・ジ・アシスの『ブラス・クーバスの死後の回想』(一八八一)やウィリアム・フォークナーの『死の床に横たわりて』(一九三〇)など死者が語り手となる小説は、既に存在していました。
 勿論、それらとは意図も効果も違いますから、二番煎じなどというつもりはありませんが、せめてオチのインパクトにもう少し気を遣ってもらえたら「紛うかたなき本物」になっていたのではないでしょうか。
 はっきりいってしまうと、殺害した老人といきなり出会うのがマズい。これがなければ、カラクリに気づかない読者も多かったのではないでしょうか。
 そうすれば、ミステリーやホラーの愛好者からも評価され、文庫化され、長く読み継がれていたかも知れませんね。

追記:二〇一三年十二月、白水社から復刊されました。

※:寧ろ架空の哲学者ド・セルビィに関する膨大な注釈の方が、『青白い炎』などの先駆として目新しかった気がする。

『第三の警官』大澤正佳訳、筑摩書房、一九七三

→『スウィム・トゥー・バーズにてフラン・オブライエン