三寸金莲(1987)冯骥才
本書は、最初に亜紀書房から刊行されたとき、原題と同じ『三寸金蓮』のタイトルでした。小学館文庫に収められるに際して、より分かりやすい『纏足』(写真)に改めたようです。
作者は「ふう・きさい」と読みます(中国の発音にすると「フォン・チーツァイ」)。三部作のひとつ『陰陽八卦』も同じく亜紀書房と小学館文庫から出ていますが、もう一作の『神鞭』は訳されませんでした。
清朝末期の天津。父母を早くに亡くした戈香蓮は、七歳の頃、祖母に纏足をさせられます。成長した彼女は、美しい足を裕福な古物商に見初められ、長男の嫁として嫁いでゆきます。
しかし、足くらべ会で、次男の嫁に敗れた香蓮は、家族から虐げられるようになります。それでも、香蓮は挫けません。次の足くらべ会で雪辱を期すべく、元侍女の老婆の助けを得て、日々、足に磨きをかけるのです。
元々、香蓮は天性の足の持ち主であり、さらに努力も加わって、次回の足くらべ会で圧勝します。その後も彼女は、二寸二分の足を持つ少女、オカマの役者など次々に現れるライバルを蹴散らします。
けれど、民に時代が変わり、纏足排斥の流れが訪れると、自然のままの足の娘に負けてしまいます。しかも、その娘の正体は……。
この小説の読ませどころのひとつは、纏足(蓮学)に関する膨大な蘊蓄です。
纏足の歴史、評価項目、纏足の作り方、靴の種類、纏足文学、ジョークなどなど、ありとあらゆる知識を得ることができます。虚構に興味のない人は、その部分だけ読んでも十分楽しめるでしょう。
纏足は、少女の足の骨を内側に折り曲げ固く縛り、肉を腐らせて作られます。本来は足の柔らかい幼児の頃に行なわれますが、香蓮は七歳になってから施術されました。
当然、激痛や発熱を伴い、最初は歩くことも叶いませんから、香蓮はやめてくれと泣き叫びます。しかし、彼女も美に魅せられた女でした。纏足された少女の美しい足を目撃した後は、もっときつく縛るよう祖母に頼むのです。
それを馬鹿げていると笑うことはできません。
顔の綺麗さより、足の小ささに価値を見出す社会における纏足は、外反母趾に悩みながら細いハイヒールを履き続ける現代の女性と大して変わりないような気がするからです。
寧ろ、あれだけ執着していた小さな足を、人々が簡単に捨ててしまったことの方が驚きです〔列強の進出以後、中国人(漢族)自らが野蛮で恥ずべき風習と考えた〕。あっという間に廃れてしまうファッションならいざ知らず、唐どころか漢の時代からあったかも知れない纏足が、一夜にして忌むべきものになってしまうんですから、人の心って面白いですね。
日本でも文明開化によって髷は姿を消しました(中国の辮髪も同様)が、髪と違って、足を解くのは容易ではないので時代の狭間の女性たちは、さぞ肩身の狭い思いをしたことでしょう(『纏足』では大旦那が亡くなり、屋敷に取り残された小足の女たちに対する周囲の風当たりは強くなる)。
馮は、皮肉かも知れないけど、纏足肯定の立場を取っています。
僕も、纏足の是非なんて実はどうでもよく、それに夢中になる男女の姿がとても自然にみえる点に心を魅かれました。確かに滑稽で残酷ですが、長く生きた文化であることは間違いないからです。
一方、『纏足』の小説としての価値をみてみると、まず、昔のスポ根漫画みたいに単純かつスカッとして、ときどき泣けるストーリーなので、頭を使わずに読むことができます。
おまけに、講談調の語りはとても親しみやすく、解説にもあるとおり、正に説話の現代版といったところです。『陰陽八卦』も落語のような面白さがありましたが、こちらも纏足以外の奇妙な人々のエピソード、贋作の作り方などの蘊蓄が豊富で、四百頁を飽きずに旅することができます。
また、旦那衆やその取巻きといった俗物たちは勿論、彼らに翻弄される女性たちをも、飽くまで軽妙に描いている点は大いに評価できます。
纏足をまともに扱うと、暗黒面ばかり強調され、陰鬱なものになり兼ねませんが、ユーモアと諷刺の毒をたっぷり振り撒くことで、滑稽さの背後に潜む、束縛され、もの扱いされてきた女性の悲劇がよりはっきり浮かび上がってくる気がします。
小足は、見た目の美しさだけでなく、動きを制限することによって、女性を家に縛りつけておくという意図があり、それを屁理屈で覆い隠そうとする男どもの浅ましさは、饒舌な語りで表現すればするだけ目立つからです。
最後に、官能性はどうかというと、これこそ読者の性的嗜好によるでしょうね。
僕は残念ながらドキドキしませんでしたが、小さな足にそそられるという方は、百年前の中国に思いを馳せてみるのも楽しいと思います。
『纏足 ―9センチの足の女の一生』納村公子訳、小学館文庫、一九九九
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