読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『モンキー・ワイフ』ジョン・コリア

His Monkey Wife: or, Married to a Chimp(1930)John Collier

 ジョン・コリアといえば、日本においては『炎のなかの絵』や『ジョン・コリア奇談集』などによって、「切れのよい怪奇・幻想の短編を得意とした作家」として認識されているのではないでしょうか。しかし、初期には詩集や長編小説も出版しています。
『モンキー・ワイフ』(写真)は処女長編であり、唯一翻訳されている長編でもあります(※)。

 後期の短編しか読んだことのない人が『モンキー・ワイフ』を読むと吃驚すると思います。しかし、訳者の海野厚志は「彼を怪奇小説或いは恐怖小説の作家とすることは、盲人が象をなでた感触であろう。(中略)コリア文学の本領は、あくまでも長編と初期の二、三の短篇集にある」と書いています。
 詩人として出発したコリアだけあって、『モンキー・ワイフ』はよくいうと文学的、悪くいうと青臭い作品です。文学作品からの引用やパロディに溢れているし、修飾が多く回りくどい表現を多用している点がそう感じる所以でしょう。

 上コンゴコンゴ民主共和国の南東部)のボボマに住む英国人教師のアルフレッド・ファティゲイは、鹿の角との交換で、雌のチンパンジーであるエミリーを手に入れます。
 驚くほど頭のよいエミリーは、ファティゲイに恋をしますが、彼にはエイミー・フリントという婚約者がいます。ファティゲイは英国に戻ると、エミリーをエイミーに預けます。
 ファティゲイは早くエイミーと結婚したいのですが、彼女は首を縦に振りません。すったもんだの末、漸く結婚式が行なわれることになりますが……。

 人間と猿の恋愛といえば、大島渚監督の『マックス・モン・アムール』があります。
 この映画は、夫も子もある女性が、雄のチンパンジーを好きになるという物語でした。アパートを借りてチンパンジーと愛を営み、それが夫にバレたことをきっかけに猿は家族と同居するようになります。それから様々なトラブルが生じるのです。
 動物性愛に走る妻に悩みつつも、家族で乗り越えてゆこうとする夫の姿を真面目に描いた作品であり、現実に起こっても不自然ではないと思わせる作品でした。
 ところが、『モンキー・ワイフ』は、それとは全く異なります。正に、奇書といえるレベルなのです。

 まず、エミリーは、ちょっと頭のよいチンパンジーではなく、ほとんどの人間よりも遥かに聡明に描かれています。何しろヴィクトリア朝時代の英語で思考するし、ラテン語の詩を引用することもできるのです。
 語り手は「ぼく」であり、エミリーは喋ることはしませんが、一人称のなかに括弧書きで彼女の科白が書かれているため、実質的には話をするのと変わりません(チンパンジー同士は会話できる)。
 それどころか、終盤にはタイプライターを打ち、文字によってファティゲイと会話するようになります。
 こうなると、そもそもエミリーをチンパンジーに設定した理由が那辺にあるのかと頭を抱えたくなってきます。

 ほかにも、「ぼく」が何者であるか分からない(神の視点なので、恐らく作者であろう)し、エミリー(Emily)とエイミー(Amy)はカナで書くとややこしいし、ファティゲイは余りに凡庸で(Fatigayの「fati」はあくびをするという意味)エミリーに好かれる資格がないしと、気になることが沢山あります。

 勿論、『モンキー・ワイフ』は、そうした指摘を予測した上で書かれているのでしょう。
 ユーモア、ウイット、サタイア、もっというと悪ふざけに満ちており、前述したとおり、他に類をみない小説であることは間違いありません。
 ただ、それだけだと、新進気鋭の作家が気張って書いた奇妙な作品で終わってしまうのですが、そうさせないのはエミリーの魅力に依るところが大きいと思います。

 彼女は、頭がよく、優しく、礼儀正しく、向上心があり、気が効いて、奥ゆかしく、好きな人に懸命に尽くす、正に理想の女性です。
 例えば、村長の妻は、ファティゲイを誘惑しようとして、それが叶わないと知ると、自ら服を破き襲われたふりをします。このピンチに、エミリーは陰で葉巻を吸うと、灰が落ちないようファティゲイに持たせたのです。つまり、灰が落ちるような激しい行為はしていないことを示したわけです。
 こんなことは、人間ですら思いつかないでしょう。

 一方、エミリーに嫉妬して意地悪をするエイミーは、救いようのない俗物に描かれています。我がままで階級意識が強く、ファティゲイの友人すら見下し、挙句の果ては婚約者を嵌め、どん底に突き落とすのです。
 その饒舌さも、エミリーが何も喋らない分、余計、鼻につきます。

 この小説は、十九世紀以前の英国の恋愛小説のパロディになっています。
 結婚に至るまでの男女の感情の機微を描いているという意味では、ジェイン・オースティンの小説を念頭に置いているのかも知れません。
 しかし、主人公がチンパンジーであることを忘れてしまえば、愚かな者たちに振り回される清廉な女性像が浮かび上がってきて、笑いよりも寧ろ憐憫の情が湧いてきます。

 そう考えると、『モンキー・ワイフ』はパロディや諷刺というよりも、人の魅力とは頭と心が優れていることであり、それ以外の要素、容姿や人種や家柄や経済力など(勿論、毛深さも)は重要ではないことを表現しているともいえます。
 主人公をチンパンジーにしたのは極端ですが、『ジェーン・エア』のバーサを例に取るまでもなく、未開の地から大都会へやってきた、地位もコネもない女性が蔑まれるのは当然という意識を持った当時の読者には、十分に刺さる作品だったのではないでしょうか。

 だからこそ、ファティゲイがエミリーの女性としての魅力に漸く気づき恋に落ちる場面から、コンゴの人々がふたりを抵抗なく受け入れるシーンまでは正に納得の展開で、ふたりの恋を素直に応援したくなります。
 エミリーはとびきり無垢な存在なので、人間同士よりも純粋な恋愛を楽しめるのです。

 尤も、比喩ではなく本物の猿を用いてしまったため、チンパンジーは、森のなかでチンパンジーの仲間と暮らすのが一番よいのでは、という別次元の意見が生まれてしまうことにもなるわけですが……。

※:戦前には『猿をめとりて』という邦題で刊行が予告されたそうだが、実現はしなかった。

『モンキー・ワイフ −或いはチンパンジーとの結婚』海野厚志訳、 講談社、一九七七

→『ジョン・コリア奇談集』ジョン・コリア

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