Take Me, Take Me With You(2004)Lauren Kelly
前回の『Gストリング殺人事件』では、ゴーストライターの話をしましたが、今回は作家の別名義についてです。
『連れていって、どこかへ』(写真)のローレン・ケリーとは、ある著名な作家の別名です。
本来の作風と異なる作品を発表するとき、先入観抜きに作品を味わって欲しいと考えたとき(大御所で評価が定まっている場合など)、あるいは単なるお遊びとして、作家は違ったペンネームを用いることがあります。
なかには、エド・マクベイン、ディーン・クーンツ、イサク・ディーネセンらのように数多くのペンネームを持つ人までいます。
それらは後にひとつの名前に統合されたり、邦訳される際、売れやすいように有名な方の名前に変えられたりといったケースが多いようです(そういうことをしてよいか悪いかは契約の問題なのか、あるいは割と自由なのかは分からない)。
しかし、『連れていって、どこかへ』は、全く名の知れていない「ローレン・ケリー」というペンネームで翻訳出版されました。事情は不明ですが、余り話題にならずに絶版になってしまったのは、そのせいもあるような気がします……。
さて、ネットで検索すれば、ケリーが誰の別名なのか瞬時に分かります。しかし、敢えてここでは正体を明かしません。
この感想文を読んで興味を惹かれた方は、検索などせず小説を読み、それが誰の手によるものか推理してみるのも楽しいのではないでしょうか(推理を楽しむ以外に名を伏せる理由は後述)。
その場合、「訳者あとがき」を先に読んではいけません。当然ながら、ネタばらししてあるためです。
以下、ちょっとしたヒントを(以下、文字反転)。
「その作家の作品は、このブログでも取り上げたことがあります。ノーベル文学賞の発表が近くなると、毎年のように名前のあがるアメリカ文学界の重鎮です。メインストリームの作家ですが、ミステリーやサスペンスも得意にしています。痛々しい女性を描くのが上手く、文体も特徴的なので、特定するのはさほど難しくはないと思います。なお、ケリーのほかに、ロザモンド・スミスという筆名も用いています」
プリンストン大学でオートマトン(自動人形)の研究をしているラーラ・クウェード。彼女は、幼少時に自動車事故(母親が兄と自分を乗せた車で列車に突っ込んだ)に遭い、心と体に傷が残っています。そのせいか、友人も作らず孤独な日々を送っていました。
ある日、ラーラの元に差出人不明の手紙が送られ、なかにはクラシックコンサートのチケットが入っていました。ラーラは、その会場で隣に座った粗野な青年ゼドリックに魅かれ、部屋に招くものの、肉体関係を迫られたことで彼を追い払ってしまいます。
その後、ラーラを評価してくれていた所長が暴漢に襲われ、ラーラの元に血塗れのネクタイが送られてきます……。
現在のできごとの合間に、ラーラの幼少期の記憶が挟み込まれます。それは「父が家族を捨て、母が事故を起こす。兄は脳に障害が残り、ドラッグ中毒に陥り施設に入っている。ラーラも顔の醜い傷跡が消えない」という壮絶な過去です。
また、これみよがしに提示される過去の謎(父親はなぜ家を出たのか、母の事故は故意だったのか、など)が、今起こっている不可解な事件とどう関係するのかが推進力になって、パラパラ漫画のように頁が進んでゆきます。
実は、真の作者を知らずに読んだ方がよいのではないかと僕が考える理由があって、それはこの作品が単なるミステリーやスリラーではないってことです。
一見、ニューロティックサスペンスのようなので、そのつもりでラストまでくると、狙いが全く違うことに気づかされるはずです。
犯人や動機なんてどうでもよく、ある意味、チャールズ・ウィルフォードの『拾った女』と同系統のフィニッシュストロークといえなくもありません。
真の作者を知っていれば、この展開は当然予想されてしまうため、予備知識なく作品を味わうためには書き手のことを意識しない方が懸命だと思うのです。
さらに作者が分かった後は「全編に漂う息苦しさは、筆名を変えたくらいじゃ隠せないよな」としみじみ感じることでしょう。
このように、新しいペンネームを用いることで読者の固定観念を消す効果は確かにあったと思います。
けれど、販売戦略としては疑問符がつきます。知らない名前のせいで、そもそも読んでももらえないというのは果たしてよかったのかどうか……。
ま、それはともかく、意外性ばかりを狙った凡百のスリラーとは次元の違う深い余韻に浸れるお勧めの一冊です。
『連れていって、どこかへ』矢沢聖子訳、ハヤカワ文庫、二〇〇六