Or Else, The Lightning God & Other Stories(1980)Catherine Lim
アジアあるいは開発途上国の閨秀作家の場合、「貧しくも逞しく生きた女の一生」とか、「歴史に翻弄された女性の愛と涙の物語」とか、「戦争の被害者となった無力な女の悲劇」といった小説が翻訳されることが多いように思います。
虐げられた弱者を主人公にした感動巨編は、需要があるから出版されるのでしょうが、「たまには重くないアジアの物語も楽しみたい。そうだ。短編集ならサラサラッとお茶漬けのように読めるかも!」……なんて人に勧めてよいのやら迷うのが、この短編集です。
長いものでも二十頁程度の掌編が十八編収まっており、読むのにそれほど時間はかかりません。
ところが、その内容はというと、些細なできごとや事件を扱ったものではなく、人生の断片を切り取り、そこにひとりの人間の半生が盛り込まれているようなものが多いため、かなり重く、読み応えがあります。高々十数頁だと油断していると、後頭部をガツンと殴られ兼ねない。
尤も、相当捻くれているものの、ユーモアのセンスは十分あるので、深く考えず黒い笑いを楽しむのも手かも知れませんが……。
この本には「日本の読者のみなさんへ」という序文がついていて、それによると「現代の進歩と伝統との衝突」がテーマだそうです。
さらに、シンガポールならではの事情、すなわちポルトガルや英国による支配を受けてきた歴史、中華系、マレー系、インド系、ユーラシアン(欧亜混血)などの国民からなる多民族国家であるため、西洋と東洋、異人種間・異言語間の対立も複雑に絡み合っています。
そもそも、原題を直訳すると「さもなくば雷神が、およびその他の物語」となります。
それを『シンガポーリアン・シンガポール』(写真)などとしたのは、複合民族国家であるシンガポールだけに、華人でもインド人でもなく「シンガポール人のシンガポール」という意味だそうですが、押しつけがましい上に語感も余りよくありません……。まあ、日本では無名の作家なので、作者に興味のある人というより、シンガポールに興味のある人を狙ったんでしょうね。
それでも、割愛することなく、原書に収められているすべての短編が訳されている点は評価できます。
多民族国家とはいえ、シンガポールの人口の四分の三くらいは華人(中国南部からの移民が多い)で、一面では「海外にある中国」ともいえます。
キャサリン・リム(林宝音)もマレーシア生まれの華人ですが、なるべく様々な視点を取ろうと心がけているように感じました。
さて、今回は収録数が多いので、気に入った短編だけをピックアップして感想を書きたいと思います。
「何も見えずに」Unseeing
死んだ後、どうしても瞼を閉じない夫。妻は、夫が原因で子どもができなかったと信じており、臨終の際、謝罪する彼を涙ながらに許しました。しかし、葬儀に現れたのは派手な格好をした女とふたりの小さな男の子でした。
夫が目を閉じないのは、自分に子種がないことを遺憾に思っているからと妻は考えていましたが、ラストで全く別の理由であることが明らかになります。表面上は平穏でしたが、互いの気持ちを全く理解し合えなかった夫婦が、それぞれ勝利感を得るところはゾッとさせられます。
「A・P・ヴェルー」A. P. Velloo
社会に怒りをぶちまけ続けるインド系の偏屈老人ヴェルー。唯一可愛がっていた知恵遅れの少女が絞殺され、彼はその容疑者にされてしまいます。
家族もなく、人からは嫌われ無視されるヴェルーは、注目されようと殺人を犯した。が、意に反して釈放されてしまったので、次は政治家を目指す……なんて解釈もできそうです。
「少女奴隷」The Bondmaid
女の子を買ってきて奴隷として育てて、年頃になったら凌辱する。妊娠したら堕胎させるものの、その子は儚くなってしまう。彼女は、死後、霊となって出てきて、自分を犯した男に籤の当選番号を教えてくれます。男は金持ちになりますが、結局、発狂して死んじゃう。
蒲松齢の『聊斎志異』にでも出てきそうな話ですが、愛人はタイ人、堕胎するのはマレー人だったりするところが面白い。それにしても、誰が何をしたいのか、さっぱり分かりません……。
「ドリアン」Durian
伯父の家族に育てられたアー・クムは、ドリアンをつまみ食いした罰に、六個のドリアンを無理矢理食べさせられます。やがて、叔父の家を出て、結婚をし金持ちになったアー・クムは、落ちぶれた伯父と伯母に金を恵んであげる代わりに十五個のドリアンをプレゼントします。
ただそれだけの話なんですけど、ドリアンを大量に食べて嘔吐するとか想像するだけで気持ち悪い……。
「モンキー野郎」Monkey Face
人種や世代間の対立も重要ですが、結局のところ、圧倒的に多いのは経済的な問題です。なかでも、この短編は、若きエリートと浮浪児の対比(ピエール・カルダンのオレンジ色のシャツとサル顔)が鮮やかに描かれています。
「プェイ・アー・モイ」Puay Ah Moi
貧しい働き者の少女が、みるみる魅惑的な女へ脱皮してゆきます。アー・モイは男を堕落させるファムファタールなのでしょうか。それとも、単に幸せな家庭に憧れる田舎娘なのでしょうか。
『シンガポーリアン・シンガポール』幸節みゆき訳、段々社、一九八四