Mystery and Manners(1969)Flannery O'Connor
フラナリー・オコナーは、とても好きな作家のひとりです。邦訳のあるものはすべて読んでいますが、やはり長編よりも短編に長けているように感じます(といっても、長編は『賢い血』と『烈しく攻むる者はこれを奪う』の二作しかないが)。
短編小説は『フラナリー・オコナー全短篇』(上下巻)にまとまっているものの、これを扱うのは少々荷が重い。いつものように「気に入った短編を紹介しまーす」といっちゃいけない迫力……っていうか怨念みたいなものがオコナーの作品から感じられるからです。
しばし悩んだ末、「全エッセイ集」と銘打たれた『秘義と習俗』を取り上げることにしました(この本は一度、復刊されている。僕が買ったのはそのとき。写真)。
小説家による随筆には、小説とは無関係の社会や政治、趣味などを扱ったものと、自作の解説、創作法、批評、文学理論などに関するものとがあります。
ほかの作家ならいざ知らず、オコナーの場合、後者にしか興味はありません。嬉々としてケーキ作りについて語られても困る……なんて心配は、実は無用です。本書は、孔雀の飼育を扱った「鳥の王」以外、すべて実作に関する随筆(講演の草稿なども含む)だからです。
「南部」「短編小説」「グロテスク」「キリスト教(カトリック)精神」「不治の病(全身性エリテマトーデス)」「早世」といったキーワードで語られることの多い彼女は、一体、いかなる信念を抱き、文学に打ち込んだのでしょうか。
その謎に迫るための格好の材料が、ここに揃っています。
何しろ、創作の方法論や信条を惜しげもなく明かしてくれており、ファンにとっては実にありがたい(逆にいうと、オコナーの小説を読んだことのない人にとってはほとんど意味がない)。研究者が何百人集まろうと、本人の言葉には敵いませんからね。
ましてや、素人が下手な感想をつけ加えるなんてもってのほかです。というわけで今回は、上記のキーワードに関して、特に興味深いと感じた箇所をひたすら抜き出してみたいと思います。
オコナーは、エッセイにおいても苛烈で辛辣で攻撃的で毒々しいので、書き写すという作業をするだけでゾクゾクしてきますが……。
「私はキリスト教の正統的立場からものを見る。私にとって生の意味は、キリストによる罪の贖いを中心にしているということであり、この世で私がものを見るとすれば、そのものがこの贖罪とどう関わるかという点をとおして見るのである」(作家と祖国)
「キリスト教を心に留める小説家は、自分にとっては不快な歪みを現代社会の中にきっと見出すものだ。(中略)敵意ある読者に、作家が、自分の想像を誤りなく伝えるために、いやましに暴力的な方法をとらざるをえなかったとしてもそれは当り前というものである」(作家と祖国)
「作家が召使いの役割を与えられたら、お客である一般読者の荷物をいつまでも水たまりの中に置きつづけるにちがいない」(作家と表現)
「(「なぜ南部には優れた作家が多いのか」という新聞記者の質問に、ウォーカー・パーシーが「南北戦争に負けたから」と答えたことを受け)真意は、われわれ南部人が、原罪による人間の堕落に比すべき経験を持ったということなのだ。われわれは、人間の限界の認識を胸の内に焼きつけて、現代世界に踏み入ったのだった。新生の無垢の状態の中では決して育たない神秘の感覚を身につけて、南部は現代に入ったのである」(作家と地域)
「小説を書くことは、恐ろしい経験である。その間に、髪は抜け落ち、歯がボロボロになることがよくある。小説を書くことは現実の逃避になるだろうと、暗に言う人たちには、私はいつも非常に腹が立つ。創作は、現実への突入なのであって、体にひどくこたえるものなのだ」(小説の本質と目的)
「短編小説作家に特別の問題は、自分の描く劇的行為をとおして、どのようにしたらできるだけ多く生の神秘を露わにできるかということである」(物語の意味)
「南部人の作家として、私は、自分の知っている土地の言葉と生活習慣をもとに書く。だが私は、南部について書いているとは考えない。小説家としての私についてだけをいうなら、広島に落ちた爆弾は、ジョージアの農村生活に対する私の判断に影響するのである」(文学の教育は可能か)
「カトリック教の秘蹟に基づく人生観は、もし作家がいくらかでも深みのある小説を書こうとしたら、ぜひ持たなくてはならぬ視点を、いつどんな所でも維持し、支持するものである」(教会と作家)
「カトリック作家は、自分がキリスト教徒であることにすっかり酔ってしまい、小説作家としての自分の本性を忘れてしまうことがよくある(オコナーの念頭にあるのは「小説を芸術と心得、その要求と不自由さに従う覚悟を決めた作家」である)」「カトリック信徒の小説家が、自分の目を閉じて、かわりに教会の目で見ようとすれば、その結果は、これまで長いことわれわれの悪名の原因になってきた信仰心だけの屑小説の山にさらに一冊積み上げることになるだけである」(神秘を視る目)
「大変に凡庸な小説が褒むべき目的に使われているいい例は、スペルマン枢機卿の『捨て子』である。(中略)読者は『捨て子』を一冊買うとその売り上げは孤児院にいくから、人助けになると知って満足感が味わえるし、その本はあとでいつでも、ドアのあおり止めに使えるのである」(神秘を視る目)
「宗教的な主題を持つ作家は、そうした主題に人びとの生活が反応を示すような地域がことに必要である。(中略)この点で、南部の作家は望みうるかぎり最高に恵まれている。彼の住む所がいわゆる「聖書地帯」だからだ(聖書地帯とはプロテスタント人口の多い地域で、聖書が物語の役割を果たす。したがって、カトリック作家であることと南部人であることはあり得ない組み合わせといわれる)。(中略)私は、これからのカトリック作家は、南部文学の生命力を強化できるだろうと思っている。なぜなら彼らは、南部を南部たらしめているものが、南部自身の蒙った敗北と侵害の歴史および聖書から吸収された特質と信念であるということをやがて知るからである」(南部のカトリック作家)
「この世界は、メアリー・アン(癌に冒され、十二歳で儚くなった少女)がなぜ死ななくてはならないのかとは問わない。かわりに、そもそもなぜ少女は生まれる必要があったのかと問うのである」(ある少女の死)
『秘義と習俗』サリー&ロバート・フィッツジェラルド編、上杉明訳、春秋社、一九八二
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