Murphy(1938)Samuel Beckett
各国が生んだ文学作品を質と量の面で比較するとしたら、アイルランドは量において他国に敵わないでしょう。しかし、質、特に一風変わった作家・作品を揃えているという意味で、十分世界の頂点に立てる資格を有していると思います。
ロレンス・スターン、ジョナサン・スウィフト、ジェイムズ・ジョイス、ブラム・ストーカー、オスカー・ワイルド、ジョージ・バーナード・ショー、ウィリアム・バトラー・イェイツ、フラン・オブライエン(※1)、アイリス・マードック、ウィリアム・トレヴァー……と並べれば納得してもらえるのではないでしょうか。
世界一有名な不条理劇である『ゴドーを待ちながら』や、『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名付けえぬもの』の三部作などをフランス語で書いたサミュエル・ベケットは、フランスの作家・劇作家というイメージが強いかも知れませんが、アイルランドの出身で、初期には英語で執筆していました。
最初に出版された長編小説(※2)である『マーフィ』(写真)もそのひとつです。
不条理文学としての完成度という点では上述した作品に劣るでしょう。二十歳代の頃の作品であること、英語で書かれたこと、「ゴドーとは一体、何者なのか」「モロイを捜して、一体どうするのか」といったキャッチーな謎に欠けることなどが、その理由にあげられるかも知れません。
けれど、既にベケット以外には書き得ない個性に溢れていますし、ユーモアのセンスも代表作に負けていません。
また、これは若書きの欠点でもあり、魅力でもあると思うのですが、自らの経験が生に近い形で取り入れられています。その意味でも貴重な作品だと思います。
無職の青年マーフィは、恋人のセリアに尻を叩かれ、ロンドン郊外にある精神病院の看護師の職を得ます。
一方、マーフィを慕うミス・カウニハンは、マーフィの師匠ニアリイ、弟子のウイリイを利用して、部下のクーパーにマーフィを捜索させます。しかし、彼らがマーフィのアパートをみつけたとき、既に彼は死んでいました。
「自分が死んだら、焼いた灰をダブリンの便所に撒いてくれ」という遺言は守られず、灰はロンドンのバーの床に掃き捨てられてしまいます。
一言でいうと、マーフィというモラトリアム青年が都市を彷徨う放浪小説です。
といっても、さすらうのは肉体よりも寧ろ魂でしょうか。
マーフィは、エマニュエル・ボーヴの主人公ほどではないけれど、そこそこ無気力で、内向的。友だちといえば、聾唖の老人くらいしかいません。
ベケットの作品には心身を病んだ者や障害者が数多く登場しますが、この作品にも心臓を止めることができる男、強烈な悪臭を放つ女、アヒル脚の女など変わり種が用意されています。
彼らは、容易に理解し合うことができない他人を象徴しているように思えます。
尤も、それ以外の登場人物も、マーフィにとっては大した意味を持ちません。恋人のセリアにさえ会いたがる素振りをみせないし、一緒に住むようになっても余りアパートに帰ってこなかったりします。
そんな具合ですから、恋人にも友人にも愛されず、死後はまるでゴミのように扱われてしまうのもやむを得ないでしょう。
要するに、この小説は、自己を世界の中心に据え、他者との間に高い壁を築いた孤独な青年の物語……なのかと思っていると……。
半分くらいまで読み進めると、突然、マーフィ以外の登場人物は、単なる操り人形に過ぎないことが明かされます。しかも、「操り人形たちは、すべておそかれ早かれ泣くことになる」というのです。
このように、全知全能の語り手が主観的に物語るという手法は、古典的な小説に多くみられます。すると、ベケットは一種の神話を書こうとしたのでしょうか。
そういわれてみると、マーフィの冒険は神話的英雄の冒険譚といえなくもありません。
謎、予言、旅立ち、試練、帰還、死、そして死後までもが語られるのですから、いかにもそれっぽい気がします。
ジョイスでいったら『若い芸術家の肖像』ではなく、『ユリシーズ』ってことになってしまうわけで、さすがに風呂敷を広げ過ぎでしょうか……。
それはともかくとして、テーマは重苦しいにもかかわらず、全体的なトーンはコミカルで、とても読みやすいです(ハヤカワ文庫版は、誤植が滅茶苦茶多いけど……)。
難しいことを考えず、ブラックユーモアの佳作として楽しむのもアリかと思います。
※1:出身地のストラバンは、現在、北アイルランド(英国)に属する。
※2:執筆された時期は『並には勝る女たちの夢』の方が早い(一九三二年)が、この本が出版されたのは没後の一九九二年である。
『マーフィ』三輪秀彦訳、ハヤカワ文庫、一九七二