Erich Kästner erzählt(1965)Erich Kästner
ほらふき男爵ことカール・フリードリヒ・ヒエロニュムス・フォン・ミュンヒハウゼンは、十八世紀のプロイセンに実在した貴族です。
ミュンヒハウゼン男爵は、ほら話が得意で、館に招いた客たちに荒唐無稽な冒険譚を聞かせていました。それを面白がったさる人物が、彼の話を本にして出版したのです。
その後、ルドルフ・エーリッヒ・ラスペが『マンチョーゼン男爵の奇妙奇天烈なロシアの旅と出征の物語』Baron Munchhausen's Narrative of his Marvellous Travels and Campaigns in Russia; also called The Surprising Adventures of Baron Munchhausen(1785)として英訳し、ロンドンで話題になったそうです。
それを逆輸入という形でゴットフリート・アウグスト・ビュルガーが再翻訳したのが『ミュンヒハウゼン男爵の奇想天外な水路陸路の旅と遠征、愉快な冒険』Wunderbare Reisen zu Wasser und Lande: Feldzüge und lustige Abenteuer des Freiherrn von Münchhausen(1786)です。これが今日ドイツで最も多くの人に読まれているバージョンでもあります。
日本においても同様で、大人向けも児童書も、ほとんどがビュルガー版の翻訳です(簡略化した『ほらふき男爵の冒険』といったタイトルが多い)。
そんななか、エーリッヒ・ケストナーの「ほらふき男爵」は少々毛色が違います。これは、第二次世界大戦中に製作された『Münchhausen』という映画の脚本として執筆されたもので、珍しくラスペ版を元にしているそうです。
岩波文庫の『ほらふき男爵の冒険』の解説(新井皓士)によると、ラスペ版は「語り手と話との一体感がない(ミュンヒハウゼンが主人公でなくとも成立してしまう)」とか。また、ビュルガー版の特徴として、諷刺が加わった点を挙げています。
尤も、ケストナーは児童向けに翻案してあるので、どちらを使用したかは余り影響がないような気がします。少なくともビュルガー版に存在しないエピソードはひとつもありません。
なお、この頃のケストナーは、ファシズムを非難したかどでナチスによって執筆・出版を禁じられていたため、ベルトルト・ビュルガーという変名を用いました。
『ケストナーの「ほらふき男爵」』(写真)に収録されている「オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」も同様の事情から、民衆本を語り直しただけなので「執筆」ではなく、ドイツ国内ではなくスイスで「出版」されたそうです。
しかし、このような誤魔化しが効くわけもなく、その後、ケストナーは一切の活動を禁止されてしまいました。
そのため、ケストナー版の『ほらふき男爵』が絵本として刊行されたのは戦後になってからです。
なお、『ケストナーの「ほらふき男爵」』は、バラバラに刊行されていたケストナー脚色の童話を六編収めたものです。とはいえ、原書には様々な版があって、「長靴をはいた猫」が収められていないものが多いみたい。日本版と全く同じ六編を収めたものが存在するのかは分かりませんでした。
日本版の収録作品は以下のとおり。
「ほらふき男爵」Münchhausen(1952)
「ドン・キホーテ」Don Quichotte(1956)
「シルダの町の人びと」Die Schildbürger(1954)
「オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」Till Eulenspiegel(1938)
「ガリバー旅行記」Gullivers Reisen(1961)
「長靴をはいた猫」Der gestiefelte Kater(1950)
いずれも、勝手な解釈を加えたり、余計な改変をしたり、必要以上に易しくしたりせず、原典の魅力をしっかりと伝えています。それでいて読みやすく面白い。
何より最大の特徴は、圧倒的なスピード感でしょう。
あの長大な『ドン・キホーテ』を僅か四十頁で駆け抜けてしまうのですから恐れ入ります。
『ナボコフのドン・キホーテ講義』ではウラジーミル・ナボコフによる見事な要約を堪能できますが、こちらは愉快な前書きを含め、親しみやすいドン・キホーテになっています。
何度も読んだ話には新発見があり、初めての話(「シルダの町の人びと」)は純粋に楽しめます。しかし、ケストナーの速度に最も適しているのは、やはり「ほらふき男爵」かも知れません。原作自体、短くて関連の薄いエピソードを矢継ぎ早に繰り出しているので、相性がよいのだと思います。
また、インチキ臭いおっさんのほら話は、子どもにこそ喜ばれます(※)。ミュンヒハウゼン男爵は、自分のほら話が勝手に出版されたことに憤慨して死んじゃったらしいのですが、彼にもし子どもがいて、ケストナーのような優秀な児童文学者が物語にしてくれていたら、大喜びしたんじゃないでしょうか。
最後に、この本は小説家、特に児童文学を志す人にとって最適な手本になると思います。
「物語の骨子を的確に抜き出す」「退屈な部分を削除して、子どもたちを飽きさせない」「古くなった言葉や事柄を磨き直し、現代に通じるものにする」「平易で親しみやすい語り口を採用する」「言葉のリズムを大切にし、音楽を聴くように読ませる」などなど、ケストナーの職人技から学べることは数多くあります。
適切な要約が文章の上達のために有用であることは明白ですので、作家志望の方は、原典と照らし合わせながら勉強してみるのもよいかも知れません。
※:男爵が白熊を大量に殺した話とか、鍛治の神ヴルカーンの妻に色目を使った話なんかは、当然ながら採用されていない。
子どもはスカトロジーを好むが、「オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」のスカトロはほとんどカットされている。唯一残っているのは「ガリバー旅行記」で、ガリヴァーが小人国において小便で火事を消す逸話のみ。
『ケストナーの「ほらふき男爵」』池内紀訳、ちくま文庫、二〇〇〇
『ほらふき男爵の冒険』関連
→『ミュンヒハウゼン男爵の科学的冒険』ヒューゴー・ガーンズバック
→『泰平ヨンの航星日記』スタニスワフ・レム
『ドン・キホーテ』関連
→『ナボコフのドン・キホーテ講義』ウラジーミル・ナボコフ
→『贋作ドン・キホーテ』アロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダ
→『キホーテ神父』グレアム・グリーン
→『ドン・キホーテ』キャシー・アッカー
→『ドン・キホーテのごとく ―セルバンテス自叙伝』スティーヴン・マーロウ
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