Los trabajos de Persiles y Sigismunda: historia septentrional(1617)Miguel de Cervantes Saavedra
ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラの遺作で、死後に刊行された長編小説です。原題を直訳すると『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難:北辺物語』となります。
訳者による解説が本編に負けないくらい面白いので、まずはそれを簡単に紹介したいと思います。
『ペルシーレス』(写真)は発売当初、『ドン・キホーテ』を凌ぐ売れゆきを示し、英・仏・伊語に翻訳されたそうです。ところが、その後は、ほぼ忘れ去られた作品となりました。
その理由のひとつとして訳者があげているのは、『ペルシーレス』が想像力に富んだ冒険ファンタジーである点です。
『ナボコフのドン・キホーテ講義』の際に述べたように、『ドン・キホーテ』は批評家や読者が寄って集って崇高な文学に祭りあげてしまったという経緯があります。それによって、セルバンテス自身「娯楽本」と呼んだ『ペルシーレス』は、文豪の作品には相応しくないとして無視されてしまったのです。
シカトの度合いはというと、本国スペインでも一九六九年に注釈本が出るまで入手容易な本は存在しなかったほど。その上、他国語への翻訳も、訳者の知る限り一八三〇年頃に発行された英語の抄訳のみとのことです。
つまり、世界的にも「幻の作品」ということになるらしい(※)。それが日本では読めるのですから、訳者や出版社に大いに感謝しなくてはなりません(本国で出版できないJ・D・サリンジャーの短編が日本では読めちゃうみたいなもんか)。
なお、邦訳は一九八〇年に、国書刊行会の「世界幻想文学大系」という叢書の一冊(二分冊)として『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』のタイトルで刊行されました。その後、ちくま文庫に入りましたが、現在はいずれも絶版です。
現時点では特にプレミアがついていないようですから、古書店でみかけたら迷わず「買い」です。こういう本は、将来、思わぬ高値がつく可能性がありますからね(おまけに、ちくま文庫は高価になりがち)。
あらすじは、以下のとおり。
王家に縁のある家柄の兄妹ペリアンドロ(ペルシーレス)とアウリステラ(シヒスムンダ)は、ローマへの巡礼の途中、離れ離れになってしまいます。蛮族の島で偶然再会したふたりは、そこから逃げ出します。
その後、スカンジナビアからポルトガル、スペイン、フランス、イタリアと旅は続き、様々な人と出会い、数多くの苦難を乗り越える兄妹。
しかし、どうやら彼らは兄妹ではなさそうです。ふたりは、果たして何者なのでしょうか。
『ドン・キホーテ』は冒険そのものよりは、饒舌な対話で読者を楽しませてくれましたが、『ペルシーレス』では豊穣な物語を堪能することができます。
主軸となるストーリーたるや、王や海賊、果ては魔女や妖術師、怪魚までもが登場するサービス満点の仕様(オリンピックまで描かれる)。おまけに、展開も早く、テンポもよく、文体も平易で、とても四百年前に書かれたとは思えません。
推敲する時間がなく、間違いや未整理の部分が多いにもかかわらず、この出来映えなんですから恐れ入ります。
古典は、今読むと間延びしており、エンターテインメントとしては賞味期限切れのことが多いのですが、この小説は別格です。
なお、『ドン・キホーテ』は非常に現代的なテクストでしたが、文学的な仕掛けという点でも『ペルシーレス』は負けていません。
前半の一、二巻は海路(北欧)、後半の三、四巻で陸路(南欧)の冒険が描かれます。そして、前半の冒険が絵巻としてまとめられ、後半はそれを物語として用いたり、その後の顛末が語られたりするのです。
ペルシーレスたちは、前半は主に苦難の当事者であり、後半は傍観者のようでもあります。つまり、前後半はまるで作中作、あるいは現実と虚構、過去と現在のような関係になっており、それによって作品に厚みが生まれています。
さらに、様々な登場人物の語る挿話が大量に挟み込まれ、重層化に拍車が掛かります。
『ドン・キホーテ』の前編に、本筋と関係のない物語が数多く挿入されているのを覚えていらっしゃるでしょうか。あれを過剰にした挿話が全編(特に後半に顕著)を彩るのです。
息子を殺した旅人をかくまってしまう母親や、夫を殺した男の息子と再婚する未亡人のエピソードなどは、それだけで長編を一編書けそうなくらい興味深い。
ただし、過度の脱線は、下手をすると散漫な印象をもたらし兼ねません。
しかし、セルバンテスは『ドン・キホーテ』前編での反省を生かします。バラエティに富んだエピソードが魅惑的な糸の如くメインストーリーにからみつき、複雑にして飽きのこない工夫がされているのです。
また、それらは『ドン・キホーテ』でもお馴染みの自己批判としての機能も備えています。
例えば、ペルシーレスの長い身の上話が、中断を何度か挟みながら延々と続く箇所(二巻)がありますが、そこでセルバンテスは登場人物の心情を借りつつ、「どんなに面白い話でも長過ぎると退屈だ」と苦言を呈します。
これは明らかに自己言及装置を備えたメタフィクションです。
まあ、ややこしすぎてセルバンテスは少々混乱したらしく、語り手の人称を間違えたりしていますけど……。
さらに、ペルシーレスとシヒスムンダを中心とした恋愛模様も、この小説の読みどころのひとつです。何しろ絶世の美男美女ですから老若貴賤を問わず、旅先で出会うあらゆる人から求愛されるのです。
恋愛小説は苦手なので、正直、誰と誰がくっつくかなんて興味はありませんが、下賎な元囚人がシヒスムンダに宛てた不遜な恋文などはゲラゲラ笑えます。
身のほどを弁えない勘違いを笑いに転化するのはセルバンテスの得意とするところですから、面白いのは当然ですけどね。
このように、波瀾万丈な物語の持つ普遍性と、現代にも通じる斬新な技法を併せ持った『ペルシーレス』は、知られざる傑作であり、きっと何百年後も古びることはないでしょう。
セルバンテスは、やはり偉大な文豪なんだなあとつくづく思います。
クライマックスでは、お待ちかね、ペルシーレスとシヒスムンダの正体とゆく末に焦点が当てられます。けれど、ネタバレになるので、彼らの秘密には触れません。
ぜひ、ご自分で確かめてみてください。
※:ところが、アレホ・カルペンティエルの『この世の王国』(1949)では、この本の一節が引用されていたりする。
『ペルシーレス』〈上〉〈下〉荻内勝之訳、ちくま文庫、一九九四