Kisses in the Nederends(1995)Epeli Hauʻofa
エペリ・ハイオファはトンガ人の宣教師の息子としてパプアニューギニアで生まれました。彼は、トンガやフィジーの大学で社会学を教える傍ら小説を書きましたが、作品数は多くありません(フィクションより学術書の方が多い)。
ひょっとすると唯一の長編小説かも知れない『おしりの口づけを』(写真)も、翻訳されたのは日本語が初めてだそうです。
南太平洋の文学といっても、アルバート・ウェントの『自由の樹のオオコウモリ』とは大きく異なります。あちらは植民地の社会構造や悲劇をリアリスティックに描いていますが、『おしりに口づけを』は帯の文句どおり抱腹絶倒の「痔」小説です。
尤も、笑いのなかに、かつて植民地だった小国の抱える様々な問題が隠されているのですが、それらは後ほど述べるとして、まずはあらすじから。
南太平洋にある架空の島国ティポタに暮らすボクシングの元ヘビー級チャンピオンで名士のオイレイ・ボムボキは、ある日、痔の痛みに襲われます。
折も折、「近代医学と伝統医学との理解と協力を促進するための第一回世界会議」がティポタで開催され、呪術師にも「ドットーレ」(西洋医学のドクターと区別して、イタリア語っぽくこう呼ばれる)という称号が与えられたため、怪しい心霊治療家や信仰治療師たちが挙ってオイレイの痔を治そうとします。
簡単にいってしまうと、『おしりに口づけを』は、オイレイの痔を様々な方法で治療しようとするコメディです。ドタバタ喜劇+マジックリアリズムという面では、エイモス・チュツオーラをスマートにした感じでしょうか。
西洋医学や東洋医学も用いられますが、ほとんどがシャーマンドクターによるインチキ臭い民間療法であり、それが馬鹿馬鹿しくて笑えます。例えば、おならが溜まると固まって肛門の壁にはりつき痛みを齎すとか、新米の悪魔が尻の穴から入り込んだとか、法螺貝を吹くとおならがメロディーを奏でるとか、巨大な海亀の甲羅のなかで診療したりとか、猛烈に痒くなる代わりに殺戮マシーンに変貌する薬草を間違えて用いられたりとか、体内に住んでいるツクツク族が戦争をしているとか、体の部位に清濁などないのだからとヨガを習得させ肛門にキスをするなどなど……。
大笑いできるだけでなく、ほっこりした気持ちになれるのも、この小説の長所です。登場人物は皆、大雑把でのんびりしていて、さらに変わり者が多い。けれど、悪人はひとりも登場しません。
都会の喧騒を逃れて、こういう南の島でくつろぎたいなあと感じる読者もいると思います(僕もそのひとり)。
勿論、よいことばかりではありません。ティポタは衛生環境が悪く、病院がほとんど機能していないため、人がバタバタと死んでゆきます。人々の暮らしも決して豊かとはいえません。
『おしりに口づけを』は、ポストコロニアル文学らしく、そうした面もきちんと描いています。笑いに包んではいますが、西洋文明の流入によって変貌を遂げざるを得なかった南の島の今の姿が果たして正しいか否かを問いかけているのです。
例えば、ドットーレの医療に頼るようになった背景には、失業者の増加、物価の上昇、物資の不足といった経済的な問題が垣間みえます。
そもそも伝統的な治療の復活を描いているのは、島にキリスト教が浸透した結果、影に追いやられた土着の信仰の重要さを改めて主張したいからでしょう。
といっても、西洋人が悪で、原住民が善などという単純な図式を提示するのでは勿論なく、「おしり」に「口づけ」する如く、糞も味噌も一緒くたに笑い飛ばしてしまうのがハイオファ流です。
彼の批判精神やユーモリストとしての能力は一流で、どうしてこうした小説をもっと遺してくれなかったのかと手前勝手な文句をつけたくなってしまうほどです。
古書店でみつけて買うかどうか悩んだ方は、巻頭の「日本のみなさんへ」だけでも読んでみてください。ここでは、南太平洋のおっさんが痔で苦しむ小説を、勤勉で礼儀正しい日本における最も権威のある出版社が翻訳出版するのはなぜなのか、ハイオファが戸惑いながらユーモラスに語っています。
ある意味、本文以上にユニークですから、ハイオファの笑いのセンスが十分に分かると思います。
『おしりに口づけを』村上清敏、山本卓訳、岩波書店、二〇〇六
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