読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『グアヴァ園は大騒ぎ』キラン・デサイ

Hullabaloo in the Guava Orchard(1998)किरण देसाई

 インド出身のキラン・デサイ(Kiran Desai)は二〇〇六年に『喪失の響き』で、女性としては最年少(三十五歳)でブッカー賞を受賞しました。
 母親のアニタ・デサイも作家で、過去に三度もブッカー賞の最終候補に残りましたが、いずれもそこから先へはゆけませんでした。それを、娘があっさり乗り越えてしまうのですから、複雑な気持ちかも知れませんね。尤もお母さんはまだ現役(?)なので、母娘で受賞する可能性はあります。

 完成に七年以上をかけたとされる『喪失の響き』は、複数の時代と場所を縦横無尽に飛び回り、ヴァルナとジャーティ、英国に留学した祖父が受けた人種差別、アメリカに不法滞在している料理人の息子、ゴルカ民族解放戦線による独立運動、主人公サイとネパール系インド人の家庭教師の恋など、独立後も西洋の支配を物理的・精神的に受け続けているインドの悲哀を重層的に描いた小説です。
 重苦しいテーマ、貧しく過酷で混沌とした状況にもかかわらず、語り口はどこか飄々としているのがキランの魅力です。例えば、ウィリアム・サローヤンの『人間喜劇』は、登場人物は善人ばかりだし、悲劇の元も抽象化されているのに、タイトルとは裏腹のペーソスが漂っています。キランの場合は逆で、問題は山積だし、決してよい人ばかりではないのに妙に楽しそう。

 それはデビュー作の『グアヴァ園は大騒ぎ』(写真)から既にみられます。いわば「心を病んだ青年に対する家族・社会」という重いテーマの割に、深刻さが稀薄です。
 小説は、文芸のなかでも新しい形式で、極めて自由度が高いのが特徴です。にもかかわらず読者の多くは、それぞれ「小説とはかくあるべきだ」という考えを持っているのではないでしょうか。
 キランの小説は、多分そこから少しだけはみ出していて、それが堪らなく心地よいのです(後述するが、結末には多くの人が唖然とすると思う。変な格言が沢山出てくるところはエイモス・チュツオーラの『文無し男と絶叫女と罵り男の物語』みたい)。

 なお、『グアヴァ園は大騒ぎ』は一九九八年のベティ・トラスク賞(英国の三十五歳以下の新人作家による優秀な長編小説に与えられる賞)を受賞しています。
『喪失の響き』ほど入り組んではいませんが、だからこそ序盤から速度を上げて読み進められます。

 うだるような暑さのパンジャーブ州シャーコートにモンスーンがやってきたとき、サンパト・チャウラは生まれました。二十年後、ぼんやりとした夢見がちの青年に育ったサンパトは、郵便局に勤めながら一日の大半を他人の手紙を盗み読んで過ごしています(※1)。そんな彼は、郵便局長の娘の結婚式で女装した上、全裸になって噴水によじ登ったため、郵便局をクビになってしまいます。
 翌日、サンパトは古い果樹園にあるグアバの木に登り、そこが自分に相応しい場所であることを悟り、そこから降りてこなくなってしまいます(※2)。家族や知り合いが木の下に集まってきて説得をしますが、サンパトは応じません。それどころか、他人の手紙を盗み読みして得た知識で、ごく親しい人しか知らない事実を次々暴いてゆきます。驚いた人々はサンパトを賢者として崇めるようになります。
 それに目をつけた父親は、家族で木の下に引っ越してきます。電気や水道を引き、バスを通し、茶店を出して一儲けしようと企みます。家族、友人、信者、役人、無神論協会のスパイ、猿などがサンパトの周りでドタバタ騒ぎを演じ、やがて……。

 木から降りてこない長男に向かって、最初、父親は頭ごなしに怒鳴ります。妹は兄を恥ずかしいと思い、祖母は孫の体を心配します。ここまでであれば、引きこもりの子どもに対する家族の対応と大きな違いはありません。
 ところが、ちょっと変わっているのが母親で、彼女は「放っておいてあげましょう」といって、家族に猛反発されるのです。
 実をいうと、母は狂人が多く生まれた家系の出身で、自らも夢遊病を患っていたことがあったり、浮世離れした性格だったりします。ですから、その血を引くサンパトの奇行にも寛容です。

 いや、世間では狂人や奇行などといいますが、サンパト自身は下らない世間で暮らす意味など全く見出せません。無理をして社会に溶け込もうとして心を壊し、ひいては死を選ぶことになるくらいなら、木の上に登った方がどれだけマシでしょう。
 母とサンパト自身には、正しい場所が木の上にあることがよく分かっているのです。

 引きこもりが一般的によろしくないとされるのは、生産活動を行なわないからです。例えば、部屋から一歩も出なかったとしても、投資や芸術作品を生み出すことで生活に必要な利益を得ていれば、誰も文句をいわないでしょう。
 サンパトの場合、家族にとって正に金のなる木。彼のお陰で、貯金はみるみる増えてゆくのですから、木の上にいてくれた方がありがたいのです。

 ごく稀にしかない幸運なケースですが、本当に羨ましいのは収入があることではありません。
 引きこもりに理解を示してくれる(というか、自分のことに精一杯な)家族、そして、ゆるくて、騒々しくて、胡散臭くて、お節介な社会の存在こそが大切なのではないでしょうか。

 例えば、僕自身、仕方なく社会生活を営んでいるものの、極力他人とかかわり合いになりたくないと考えている人間です。仕事以外では滅多に外出しませんし、他者とコミュニケーションを取る機会も限られています。それどころか、ネットやオンラインゲームでのやり取りすら耐えられません。
 それでも、キランの描く虚構の世界に生まれていたら、もう少し生きやすかったかも知れないなと思ったりするのです。ここに住む人々は、干渉するにしても放っておくにしても大雑把かつ欲望に忠実で、何となく憎めません。サンパトはうんざりしているけれど、声なき弱者を見殺しにする現代の日本に比べたら天国といえます。
 人は「孤独」を求める生きものですが、人を「孤立」させてしまう社会が正しい方向に向かっているはずはないからです。

 ちなみに、サンパトは仕事も妻も親にみつけてもらいました(どちらも上手くいかなかったが)。
 就職と恋愛(結婚)が大きな壁になっている現代の若者(特に男)にとっては、こういうのもアリなんじゃないかと真面目に思います(持参金の問題はさておき)。

 さて、物語の方は、酒の味を覚えて略奪を繰り返す猿たちを捕獲するための大作戦が決行されようとしたそのとき、世を儚んだサンパトの身にグアバの木が奇跡を齎した……と思いきや、不条理な落語の如き馬鹿馬鹿しいオチが用意されています。
 ちょっと吃驚しますので、ぜひ、ご自分の目でお確かめください。

※1:インドなので、ルース・レンデルの『ロウフィールド館の惨劇』のようにはならない。

※1:イタロ・カルヴィーノの『木のぼり男爵』の主人公コジモ・ピオヴァスコ・ディ・ロンドーはカタツムリ料理が嫌で樹上の人となる。


『グアヴァ園は大騒ぎ』村松潔訳、新潮社、一九九九

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