Harry Dickson(1932-1938)Jean Ray
「名探偵ハリー・ディクソン」(写真)は、『幽霊の書』『マルペルチュイ』『新カンタベリー物語』といった幻想味の強い小説を得意としたジャン・レイ(※1)が、若い頃に手がけた少年向けのミステリーシリーズです。
ハリー・ディクソンは「アメリカ生まれのシャーロック・ホームズ」と呼ばれ、一九二九年から一九三八年の十年間に、何と百七十八編も書かれました。
元となったのは、ドイツ語で書かれたホームズのパロディ小説(※2)で、これをレイがオランダ語に翻訳したのが始まりです(20話から)。それが、やがて翻案となり、レイの完全オリジナルストーリーに変化したのは65話(1932)以降です(山中峯太郎や山本周五郎のホームズものみたいなものか)。その後も、すべての話を担当したわけではないみたいですけど、計百編以上は手がけたようです(再録などもあった模様)。
これだけ量産されたのは、レイの筆が異様に速かったこともありますが、ベルギーやフランスの子どもたちに相当な人気があったからでしょう。
ちなみに、レイと同じベルギー人のエルジェが描いた「タンタンの冒険」の初掲載も一九二九年でした。このふたつのシリーズをリアルタイムで楽しめた、当時のフランス語圏の少年が心底羨ましい……。
というのも、初期のモノクロ版まで和訳されている「タンタン」シリーズと対照的に、「ハリー・ディクソン」は残念ながら三冊分(六編)が翻訳されているのみで、それも大して人気が出ず、絶版になってしまいました。
戦前ならともかく、一九八〇年代の岩波少年文庫(※3)の本来の読者(小中学生)には受け入れられなかったのもやむを得ません。何しろ、アストリッド・リンドグレーンの「名探偵カッレくん」シリーズでさえ、しばらく品切れ状態だったんですからね。
このシリーズを喜んで購入したのは、懐かしい探偵小説のファンか、ミステリーマニアだけだったんじゃないでしょうか。
まずは、シリーズの概要を簡単にまとめてみます。
ハリー・ディクソンは、十九世紀末、アメリカで生まれました。その後、祖先の国であるイギリスに渡り、サウスケンジントンの工科大学に入学します。彼が科学の知識を有しているのは、そのためです。
ディクソンは、ホームズ同様、ベーカー街で探偵業を営んでいます。風貌もホームズそっくりです。ただし、助手は、トム・ウイルズという若い男性です。
本シリーズは、主としてオカルトやSF(古代文明、秘密結社、秘義、ロボット、ロケットなど)を題材としているのが特徴です。また、推理よりも、冒険やアクションの比率が高いといえるでしょうか。
日本版は一巻に二話ずつ収録されています。
65話から順に収録したわけではなく、訳者が面白いと思った話を訳したようですが、「一体、なぜ、この話を選んだんだ?」という回もあります(「怪盗クモ団」とか)。
ま、概ね子ども向けとは思えないほどクオリティが高いので文句はないんですけどね……。
「怪盗クモ団」La Bande de l'Araignée(1933)第85話
ディクソンの机の上に、毎日ひとつずつ銀でできたクモの装飾品がおかれます。ドアに三重の鍵をかけ、一睡もせずに見張っていても、クモはいつの間にか増えているのです。
ある日、若い女性が訪ねてきて、クモをおいたのは自分であること、さらに彼女はクモ団という組織を率い、大掛かりな犯罪を働くことを予告します。
初っ端から、クモが増えるという魅惑的な謎と、寄宿学校の女生徒が殺人も厭わない犯罪組織の首領だという意外性で、読者の心を捕える手腕はさすが……ですが、何と、最後までクモの謎も解明されず、クモ団も捕まえられないのです。「おそるべき〈クモ団〉との戦いがあらたな段階に入っていこうとしているのを感じた」と、いかにも続きがありそうな雰囲気を漂わせて終わりますが、少なくとも日本版には二度とクモ団は登場しません。
このまま有耶無耶になってしまったのか、続編を訳していないだけなのかは分かりません。むむむむ。
「謎の緑色光線」L'Étrange lueur verte(1932)第69話
ロンドン郊外の荒れた館から、緑色の光線が放たれ、人を焼き殺しました。これはフランスの科学者が開発した怪光線で、犯人はこれを使って脅迫を繰り返します。
ディクソンは光線のみならず、自分そっくりのロボットとも対峙します。空想科学がモチーフになっていますけれど、SFというより怪奇小説っぽいですね。
それにしても、ディクソンは犯罪を未然に防ぐのではなく、金田一耕助のように殺人をすべてやり遂げさせた後、解決するタイプの探偵みたいです(自らも躊躇せず敵を殺す)。この事件も、関係者は全員死に、殺人兵器も海に沈み、何も残りません……。
「七狂人の謎」Le Mystère des sept fous(1933)第87話
アメリカにいた頃の幼なじみマーロウ(※4)から手紙をもらい、イギリスの田舎へ赴くディクソン。この村では六人の金持ちが狂人になっており、次はマーロウの番だというのです。
事件を依頼され、調査し、不可思議な謎を論理的に解くという本格ミステリーの王道ともいうべき短編。謎そのものも不気味ですし、ブラックなオチも絶妙です。
「地下の怪寺院」Le Temple de fer(1933)第93話
月へゆくロケットの開発に失敗したベネズエラの科学者。彼は、地下に巨大な寺院を建築し、そこへ誘拐したディクソンを連れてきます。
プロローグで「これほどおそろしい事件ととり組んだことは一度もなかった」などと散々煽るのは、読者に、今回の本当の敵は科学者ではなく、宇宙人(知的生命体)だと錯覚させるテクニックです。「さすがのディクソンも宇宙人が相手じゃ何もできなかったか」と思ったところで、ある意味、さらに恐ろしくて現実離れした真相が明かされます。これに驚かない人は、多分いないでしょう(ちゃんと伏線も張られている)。
一巻の二編は、正直いって今一の出来ですが、二巻は二編とも面白く、ミステリー好きの大人にもお勧めです。
「悪魔のベッド」Le Lit du diable(1935)第147話
現れたり消えたりする不思議な湖。そこに浮かぶ小島に建つ廃墟におかれた血の滴るベッドと、おかしな男たち。百年近く前の手記に書かれていた奇妙な謎は、ディクソンが現在調査中の殺人事件と関係がありました。
序盤は「何が何と、どう結びつくのか」「誰がどんな役割を果たすのか」が巧妙に隠されています。勿論、全貌が明らかになったときの衝撃を増すためです。
ただし、結末は「地下の怪寺院」とよく似ているので、続けて読むと「またか」と思われるかも知れません。
それでも、地底の大都市、生きているミイラ、グロテスクな怪物、古代文明の叡智など、ワクワクする要素がたっぷり盛り込まれており、大きな子どもでも十分楽しめます。
「銀仮面」L'Homme au masque d'argent(1936)第151話
消えた飛行船の謎を追って、独身者ばかりが住む村に辿り着くディクソン。しかし、そこは、どうやら人工的に作られた村らしく、胡散臭い連中が正体を隠して暮らしていました。やがて、調査のため、廃墟の地下に潜ったディクソンは、銀色の頭を持ったロボットに襲われます。
「地下に潜む怪物(ロボット)」もよく登場しますが、「若い娘が、実は凶悪な犯罪者」というパターンも多い。レイの趣味なのか、それとも、訳者がそういう話ばかり選んで訳したのでしょうか……。
※1:ジャン・レーの表記もあり。また、オランダの若い読者向けには、ジョン・フランダース(John Flanders)の名を用いた。
※2:ドイツといって思い浮かべるのは「宇宙英雄ローダン」シリーズで有名となった「ヘフト」である。ヘフトとは、ひとつのエンタメ小説のシリーズを複数の作家によるチームで執筆し、定期刊行物の形で販売するもの。ドイツには今も昔も沢山のヘフトが存在する。ひょっとすると「元となった、ドイツ語で書かれたホームズのパロディ小説」とはヘフトのことかも知れない。
※3:岩波少年文庫は一九八五年に新装版になったが、それでも現在のものと微妙に判型が異なる(今の方が左右の幅が広い。写真)。本棚に並べる際は凸凹にならないよう注意が必要である。
※4:フィリップ・マーロウを意識したのかと思いきや、レイモンド・チャンドラーの長編第一作である『大いなる眠り』の刊行は一九三九年なので、関係なかった……。
『怪盗クモ団 −名探偵ハリー・ディクソン1』榊原晃三訳、岩波少年文庫、一九八六
『地下の怪寺院 −名探偵ハリー・ディクソン2』榊原晃三訳、岩波少年文庫、一九八七
『悪魔のベッド −名探偵ハリー・ディクソン3』榊原晃三訳、岩波少年文庫、一九八七
→『新カンタベリー物語』ジャン・レイ
→ 『ゴルフ奇譚集』ジャン・レイ
シャーロック・ホームズ関連
→『シャーロック・ホームズ異聞』山本周五郎
→『名探偵オルメス』ピエール・アンリ・カミ
→『シャーロック・ホームズのチェスミステリー』レイモンド・スマリヤン
「オカルト探偵」関連
→『幽霊狩人カーナッキの事件簿』ウィリアム・ホープ・ホジスン
→『心霊博士ジョン・サイレンスの事件簿』アルジャーノン・ブラックウッド
→『黒の召喚者』ブライアン・ラムレイ
→『魔術師が多すぎる』ランドル・ギャレット
→『サイモン・アークの事件簿』エドワード・D・ホック
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