読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『脱皮』カルロス・フエンテス

Cambio de piel(1967)Carlos Fuentes

 スペイン語圏の苗字は、父方と母方の姓を組み合わせて作られます。
 例えば、ガブリエル・ガルシア=マルケスの場合、
  名  前 ガブリエル
  父方の姓 ガルシア
  母方の姓 マルケス
 となっています(※1)。

 子どもには、基本的に夫妻の父方の姓を伝えてゆきます。
   ガブリエル・ガルシア=マルケス
   メルセデスバルチャ=パルド
   ロドリゴガルシア=バルチャ

 とはいえ、日常生活では面倒なので、第二姓は略すことが多いそうです。フエンテスも、正確にはカルロス・フエンテス=マシアスですが、上記の理由でマシアスは取ってしまいます。

 一方で、ガルシア=マルケスやマリオ・バルガス=リョサのように姓を省略しない人もいます。ガルシアやバルガスはありふれた姓なので、ひとつだけだとインパクトに欠けるからです。
 日本では「マルケス」「リョサ」などと呼ぶ人がいますけど、これはふたつの意味で間違いです。
 まず、第一姓を省略してはいけません。略すとしたら「ガルシア」「バルガス」を残し、ガブリエル・ガルシア、マリオ・バルガスとなりますが、有名人(ペンネーム)の場合、勝手に省略してしまうのもダメです。

 勿論、例外もあって、パブロ・ルイス=ピカソは、第一姓を略しパブロ・ピカソを名乗っています。これも理由は上記と同様、平凡な「ルイス」という名前を避け、珍しい「ピカソ」を選択したからです。

 閑話休題
 フエンテスは小説のみならず戯曲や評論も数多く執筆し、日本でもたくさんの著作が翻訳されています。二十一世紀に入ってから新訳が途絶えていましたが、二〇一二年に死去したことと関係があるのか、『澄みわたる大地』(1958)や『誕生日』(1969)が新たに訳されました。もしかすると大作『Terra Nostra』(1975)もそのうち翻訳出版されるかも知れないので、楽しみに待ちたいと思います(追記:二〇一六年五月、水声社より『テラ・ノストラ』のタイトルで刊行された)。

 さて、フエンテスのように活動期間も長く、作品数も多い大作家にとって、『脱皮』(写真)や『聖域』は、最早語られることのほとんどない、忘れられつつある作品かも知れません。
アウラ」(※2)『誕生日』「チャック・モール」といった幻想的な中短編や、『澄みわたる大地』『老いぼれグリンゴ』『アルテミオ・クルスの死』など評価の高い長編と比べると、上手くいっていない部分が多い……。もっというと「奇を衒っただけの中途半端な実験作」「退屈」「失敗作」とまでいわれてしまうこともあります。

 ところが、『脱皮』には、僕の心の琴線に触れる要素があるんです。それは、何を隠そう「胡散臭い語り手」の存在です。
 思えば、これまでもメタフィクションや、信頼できない語り手の手法を用いた作品ばかり取り上げてきました。正直、『脱皮』は、大騒ぎするほど斬新な手法ではないし、フエンテスの狙いはそんなところにないことは分かっていますが、「そこに存在しない人物が一人称で物語る」ってだけで、ゾクゾクさせられます(続きは後述)。

 国連の機関に勤め、大学でも教えているメキシコ人のハビエル、その妻でユダヤアメリカ人のエリザベス、ナチスの収容所建設に協力したチェコ人のフランツ、ハビエルの教え子で裕福なメキシコ人のイサベル。
 四人は、アステカ帝国を征服したエルナン・コルテスとは逆のルートを辿って、車でメキシコを旅します。しかし、ピラミッドのあるチョルーラという街で、自動車が何者かに細工され動かなくなってしまいます。
 一方、彼らの後をバスに乗って追ってくるのはフレディ・ランベルトという男(語り手)。彼は、四人のうちの誰かを殺そうとしています。
 真夜中、ピラミッドを訪れた四人は、落盤事故に遭いますが……。

 あらすじを書くと単純な物語にみえますが、実際は真っすぐ読み進むのが非常に困難です。
 というのも、現在の描写の合間に、登場人物の過去、メキシコの歴史、世界の暴力史、文明論、芸術論、三面記事など種々雑多なものが挟み込まれるからです。
 しかも、それらは分量も多く、断片的で、頻繁に割り込んできます。いや、頻繁などというレベルではなく、いわば第二部全体が長大な脱線あるいは蛇足ともいえます(ごく短い第一部と第三部のみで、物語は成立してしまうので)。

 加えて、語り手の存在が謎に包まれており、あれこれ余計なことを考えすぎてしまうため、最初はなかなか波に乗れません。ですが、読み進めてゆくうちに過去のエピソードにまとまりが出始めて、俄然、面白くなってきます。
 といっても、かなり観念的なので、気を抜くとわけが分からなくなってしまいますが……。

 実をいうと、話があちこちに飛ぶのも、雑多な知識が入り交じるのも、頭のなかだけで構築された妄想の匂いがするのも、ある理由があります。
 それが、この作品の持つ特異な構造です。
 前述したように「そこに存在しない人物が一人称で物語る」形式なのですが、まともに考えれば、オチは簡単に読めてしまうでしょう。要するに「ほかの登場人物は、語り手が作り出した虚構の人物だった(語り手とは同じ階層に存在していたのではなかった)」ということなのですが、この部分に関しては、確かに芸がなさすぎます。
 エンタメ小説ではないのでインパクトを優先する必要はありませんが、もうちょっと上手く処理して読者を驚かせて欲しかった、と誰しもが感じるのではないでしょうか。

 ひょっとすると、フエンテスは、フリオ・コルタサルの『石蹴り遊び』(1963)を意識していたのかも知れません。
 モレリという老作家の存在、また、映画や音楽に関する議論の挿入など共通点が少なからずありますし、何より、作中、二度も『石蹴り遊び』が出てくるからです。

 それはともかくとして、上記の手法は飽くまで手段にすぎません。フエンテスの目的は、歴史の虚構化にあるのです。
 彼は、「この小説を理解する唯一の方法は、この作品の完全な虚構性を受け入れるかどうかにかかっている。つまり、歴史も虚構であり、現実もまた欺瞞なのだ」と語っています。
 フィクションに混じって語られた人類の歴史すら虚構にしてしまうことで、人による、人に対する暴力を普遍化し、今後も何度となく繰り返されることを暗示しているのではないでしょうか。

 登場人物たちの関係からは、スペイン人によるアステカの征服、ナチスによるユダヤ人の迫害、アメリカによるメキシコ侵略といった血なまぐさい歴史が垣間みえます。
 また、アステカ帝国といって真っ先に思い浮かぶのは「生贄」です。そこでは、生きたまま心臓を取り出したり、皮を剥いだりといった残虐な儀式が行なわれていたそうです。
 生贄に反対したとされるのが、蛇神ケツァルコアトル(「羽毛の生えた蛇」の意)であり、また、死と再生の神シペ・トテック(「皮膚を剥がされた者」の意)は、自らの皮膚を剥ぎ、人々に穀物を与えることで知られています。これらの神々からは、皮を脱ぐたびに成長(転生)してゆく「脱皮」が響いてくるではありませんか。

 けれど、愚かな人類は、幾度脱皮して新しく生まれ変わったとしても、同じ過ちを繰り返すでしょう。
 第三部において、人種も性別もバラバラな六人の男女によって演じられる四人は、循環する時間に囚われ、過去も未来もなく、永遠に断罪されるのです。
 それは勿論、語り手であるランベルトの罪と罰でもあります。彼は隔離された精神病院で、もがき苦しみ続けるのですから。

 それにしても、こう書いてみると、『脱皮』は、混沌とした迷宮の如き『誕生日』と多くの共通点があることに気づきます。円環的な時間の流れ、神話・歴史・宗教への言及、多数の声による重層的な構造、罪の記憶などなど……。
 繰り返しますが、『脱皮』は決して詰まらなくはないものの、冗長さも目立ちます。もう少しスマートだったら、どんなに読みやすかったでしょう(その分、『誕生日』よりは理解しやすいが)。

 もしかすると、そうした希望を実現してくれたのが、中編『誕生日』だったのかも知れません。
『脱皮』で試みたことが、数年後に『誕生日』として昇華したと考えれば、決して見過ごすことのできない作品ではないでしょうか(※3)。

※1:ガルシア=マルケスにしても、ピカソにしても本名(名前の部分)は、洗礼名だ何だで、もっと長い。

※2:岩波文庫の『フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇』でも読めるが、かつてはエディシオン・アルシーヴからも発行されていた。岩波文庫版とは訳者も収録作品も異なるので、古書店で函・帯つきを二千円くらいでみつけたら買っておくとよいかも。

※3:ちなみに『脱皮』は、スペインのビブリオテーカ・ブレーベ賞を受賞しており(マリオ・バルガス=リョサの『都会と犬ども』、ギジェルモ・カブレラ=インファンテの『TTT ―トラのトリオのトラウマトロジー』、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』なども受賞している)、フエンテス本人は「失敗作」と思ってなかっただろうが……。


『脱皮』ラテンアメリカの文学14、内田吉彦訳、集英社、一九八四

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