読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『青い花』レーモン・クノー

Les Fleurs bleues(1965)Raymond Queneau

 レーモン・クノーの小説は、以前『イカロスの飛行』の感想を掲載していたのですが、アップロードに失敗してデータが消えてしまいました……。
 このブログは「お気に入りの作家の紹介」でもあるので、ぜひ加えておきたい。というわけで、今回はクノーの代表作といえる『青い花』(写真)を再読しました。

 まずは、簡単なあらすじから。
 主人公のひとりシドロランは、一九六四年のパリの水上生活者です。一日のほとんどを眠ることと食べることに費やし、その合間に落書き(自分の悪口)を消すという気ままな生活をしています。
 一方の主人公であるオージュ公爵は、小姓と人語を解する馬を供に旅をします。ドン・キホーテと異なるのは、彼が向かうのは未来の世界だということ。すなわち、一二六四年から、数学好きなクノーらしく正確に百七十五年ごとの一四三九年、一六一四年、一七八九年、一九六四年へと移動してゆきます。

 こう書くと、タイムスリップを使ってフランスの歴史を描いた小説と思われるかも知れませんが、そう単純ではありません。
 というのも、オージュ公のパートは支離滅裂で、まともな解釈がしにくいからです。例えば、オージュ公だけでなく、関係のある架空の人物も一緒に時を超えます。また、オージュ公のまわりで起こるできごとは投げっ放しで、うやむやになってしまうことが多い。当然、それらに関して筋の通った説明はありません。

 クノーの作品は、大雑把にいって、難解な実験小説と、市井の人々を描いたポピュリスム小説のふたつに分けられますが、オージュ公のパートは前者で、シドロランのパートは後者といった感じでしょうか。
 両者が互いにシンクロしながら進んでいくところが、この作品の醍醐味です。読んでいる途中で「そうか。オージュ公とは、シドロランのみている夢のなかの人物だな。そう考えれば、時間の移動も、出鱈目な展開も納得だ」と気づくわけです。
 一方で、最後にはオージュ公が一九六四年のパリに現れ、シドロランと出会うであろうことも予想できます(帯にも書いてある)。

 そうなると「夢をみていたのはオージュ公の方だった」「シドロランもオージュ公も、誰かのみている夢のなかの存在だった」「すべてはシドロランの想像の産物だった」「オージュ公は、シドロランの分身だった」など、様々な解釈が可能になってしまいます(あるいは、どんな解釈も無意味になる)。
 ですが、僕としては「夢みる人シドロランが、自分の人生を変えるために夢を実体化した」と考えたい。
 実際、オージュ公が現れてから、シドロランの生活は一変します。恋人との刺激も変化もない毎日、動かない河船、ルーチンとしての落書き消し、飲みものといえばフェンネルのエッセンス一辺倒といった退屈すぎる日常は、よい意味で粉々に破壊され、そこにドラマが生まれます。終盤は、まるでミステリーや恋愛小説を読んでいるみたいですし、オージュ公が河を遡って元の時代に帰ってゆくラストシーンは、それまでのユーモラスな雰囲気が嘘のように哀しく美しい。

 そして、最後の最後に、タイトルとなった「青い花」が登場します。そのイメージの鮮烈なこと!
 処女作の『はまむぎ』(一九三三)で、既に一か所だけ青い花を登場させるなど、相当なこだわりを持つだけあって、はたと手を打ちたくなるほど劇的な効果をあげています。まさに文学史に残る名場面といえるでしょう。

 訳本は一九六九年発行なのですが、部数が多かったのか古書店では割とよくみかけます。ご興味がございましたら、ぜひ。

追記:二〇一二年十二月、水声社の「レーモン・クノー・コレクション」から新訳が出版されました。

青い花』滝田文彦訳、筑摩書房、一九六九

→『100兆の詩篇レーモン・クノー

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