読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『責苦の庭』オクターヴ・ミルボー

Le Jardin des supplices(1899)Octave Mirbeau

 オクターヴ・ミルボーは、正統王朝派のジャーナリストとして活動を開始し、後にアナーキズムに傾倒し、小説や戯曲を著しました。
 ブルジョア、権力者、聖職者、民衆などあらゆる者を憎んだミルボーは、過激でグロテスクで毒々しい作風が特徴。個人的には、ジョナサン・スウィフトとともに愛すべき作家です。

 ただし、邦訳には恵まれておらず、自伝的三部作の『Le Calvaire』『L'Abbé Jules』『Sébastien Roch』はいずれも未訳のままです。
 一方、悪妻アリスに当てつけたとされる悪女の物語『責苦の庭』(写真)と『小間使の日記』は翻訳されています。
 文学的価値なんて難しいことは僕には分かりませんけれど、現代の作家であれば尻込みしてしまいそうな過剰な描写は一読の価値ありです。
 折角ですから、二回に分けて両者を扱ってしまいます。

 まずは『責苦の庭』ですが、これは大きく三つのパートに分かれています。

フロンティスピス(序章)
 高名な作家のもとに数人の友人が集まりました。「人間の最大の関心は殺人である」という話題で盛り上がるなか、それほどの年齢でもないのに老人のようにみえる男が『責苦の庭』と名づけた原稿を読み始めます。

第一部 学術調査
 選挙に出馬し落選した「わたし」は、悪い噂が消えるまでフランスを離れろという友人の大臣ウジェーヌ・モルタンの指示に従い、生物学の調査をするため、船でセイロンへ向かいます。
 その途中、英国人のクララという女性に出会い、「わたし」は恋に落ちます。

第二部 責苦の庭
 だが、クララは残虐で悪魔のような女でした。支那で暮らす彼女の元から逃げ出した「わたし」でしたが、二年後に再び戻ってきてしまいます。
 帰宅早々、クララは「わたし」を徒刑場に連れてゆきます。そこは正に地獄のような場所でした。

 第一部の時点では、クララが残忍な女であることは分かりません。
 船のなかでフランスの探検家や英国の士官が、ドイツ人を殺して食ったり、アフリカで文明開化と称し現地の人を殺しまくったり、インド人を一ダース縦に並べ新兵器で皆殺しにしたりといった体験を語るのを興味深そうに聞いていましたが、それも無知な若い女性の好奇心と捉えることができるからです。

 ところが第二部になると、いきなりクララ(※)の残虐さが明らかになります。
 クララが嬉々として通う徒刑場とは、正に地獄絵図の如き場所です。何もしてないか万引程度の罪で牢に入れられた囚人たちは、重く大きな首枷をはめられ、横になることもできず、少しでも身動きすれば血だらけの首筋が擦れて激痛に襲われます。そこへクララたちが悪臭を放つ腐った生肉を投げ入れると、肉の奪い合いが始まるのです。

 さらに凄まじいのは、責苦の庭と呼ばれる庭園です。
 ここは美しい花や草木が有能な庭師の手によって完璧な調和を保っています。しかし、そのなかには処刑場があります。そこにいる処刑人は処刑を芸術と考えていて、想像するのもおぞましい方法で罪人の命を絶ってゆくのです。
 例えば、全身の皮を、肩の二か所だけ残して剥ぎ取り、インバネスのようにして歩かせるとか、鼠を入れた壺を囚人の尻に密着させ、熱した棒を鼠に近づけると鼠は人体を食い荒らすとか、鐘の下で体を縛られ、休みなく鐘を鳴らし続けることによって、鐘の下の者も鐘を撞き続けた者も死に至るなどといった具合。

 ミステリーやスリラーには、殺人を芸術と捉えるサイコパスが登場することがあります。また、歴史上でもバートリ・エルジェーベトやジル・ド・レといった残忍な殺人鬼は存在しました。
 しかし、『責苦の庭』での処刑はそれらとは異なり、パフォーマーと観客が一体になったエンターテインメントショウなのです。
 残忍な処刑法を考え実行することに酔っている処刑人と、それに快楽を見出し、通い詰めるクララのような者たちにとって、責苦の庭は一種の桃源郷です。

 とはいえ、余りのむごたらしさ故、クララは責苦の庭から帰る舟のなかで気を失い、激しい発作に襲われます。
 けれども、一週間もするとまた悪夢のような庭を訪れたくなります。責苦の庭桃源郷と異なるのは、血に飢えた狂人を、何度でも迎え入れてくれる点です。

 愛やセックスに飽きた者を刺激してくれるのは、最早「死」しかありません。
 が、やがて彼らが、他人の死に退屈してしまうことは目にみえています。
 そうなると当然、待っているのは自らの死ということになりますが、物語は肝腎なところを描かずに終わります。
 といって、画竜点睛を欠くわけではありません。クララがどのような最期を迎えたのかは、『責苦の庭』によって己の残忍非道な性質に気づいた読者が、各々想像して愉しむべきなのです。けけけけ。

※:沼正三の『家畜人ヤプー』のクララ・フォン・コトヴィッツは、ここから取られたのだろうか。

責苦の庭』フランス世紀末文学叢書5、篠田知和基訳、国書刊行会、一九八四

→『小間使の日記オクターヴ・ミルボー