読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『われら』エヴゲーニイ・ザミャーチン

Мы(1927)Евге́ний Ива́нович Замя́тин

 エヴゲーニイ・イワーノヴィチ・ザミャーチンの『われら』の訳本は、一九七〇年に講談社より刊行され、後に文庫にもなりました。その後、岩波文庫に移りましたが、現時点では品切れのようです。
 ま、岩波文庫なので、そのうち重版がかかるでしょう。

『われら』は、文学でも政治でも革新的だったザミャーチンが一九二〇年頃執筆したディストピア小説です。英訳が先に刊行され、プラハにてロシア語版が発表されたのは一九二七年のことでした。
 さらに、ソ連本国で出版されたのはペレストロイカ後の一九八八年になってから。共産主義の未来に警鐘を鳴らした小説ですから、それも無理はありません。ザミャーチン自身も、当然、逮捕・投獄・出版禁止などの圧力をかけられ、後に国外に逃れています。

 宇宙船インテグラルの製作担当官D-五〇三(Д-503)が住んでいるのは、単一国が支配をしている千年後の未来。時間律法表で日常生活は管理され、セックスまで規制されています。
 Dは、革命を企む女性I-三三〇に心魅かれ、彼女たちの計画(単一国を取り巻く緑の壁を壊し、インテグラルを奪い、宇宙へ向かう)に引き込まれます。しかし、Dの手記から計画がバレて、彼らは逮捕されてしまいます。
 そして、Dは……。

 ディストピア小説としては、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』(一九三二)や、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』(一九四九)の先駆けともいえる作品です。また、SFとしても、カレル・チャペックの『RUR』(一九二〇)とほぼ同時期に執筆されました。
 簡単にいってしまうと、全体主義を批判し、ゆき過ぎた科学技術の危険性を訴えたフィクションですが、諷刺としてどうなのかは最早大した問題ではなく、文学としていかに優れているかに注目すべきだと思います(『すばらしい新世界』だって、結末が効果的だからこそ今も読み継がれているのではないだろうか)。

 まず目につくのは、科学文明や国家体制に批判的な人物ではなく、それらを礼讃している男を主人公にした点です。
 Dは、現体制に疑問を抱くどころか誇りを感じており、古代人(二十世紀の人々)を野蛮で非科学的と考えています。それが恋をしたことによって、次第に人間らしい心を取り戻してゆきます。
 にもかかわらず、Dは恋に悩む状態を病気と考えてしまいます。Iを強く懸想しつつ、「恩人」に対する信頼は些かも揺るがないのです。そもそも、彼のいう「われら」とは国家の構成員のことであり、革命の同志を指すわけではありません。

 結局、Dは中途半端な気持ちのまま、大きな渦に巻き込まれ、最後にはすべてを奪われてしまいます。それは正に、取り立てて思想もない、勇気もない、行動力もない一市民の姿といえるのではないでしょうか。
 ケン・キージーの『カッコーの巣の上で』のマクマーフィのような反逆者と違って、Dは国家にとって模範的ですが、だからこそ却って罪深い存在といえるのです。
 要するに、ザミャーチンには、体制を批判すると同時に、読者を啓蒙するという意図があったのでしょう。頭を使わず、心を殺している者に未来などないと……(『われら』は出版こそされなかったものの、朗読によって知られていたそう)。

 それは、この小説がDの手記という形を取っていることからも分かります。
「スカース(語り)」という文学用語はロシア語(skaz)で、まるで「僕」が「君」に話しかけているかのように書かれたものを指します。
『われら』においても、その伝統的な技法を用いており、「私」が「諸君」と呼びかけますが、この「諸君」とは千年後の人々ではなく、当時のロシアの「われら」なのです。

 Dは、単一国家の素晴しさを讃えるために手記を認めているという設定です。そのせいか、Dの個人的な情報はほとんど記されず、出自も過去も家族も不明のままです。
 これも、読者の想像力を十分に発揮させるための仕掛けなのかも知れません。どこにでもいそうな安易に体制に迎合する男の悲劇は、容易に自分自身に置き換えることが可能だからです。

 それにしても、Dの人生を変えることになったものが思想ではなく恋だという点は、文学的であるとともに、いかにも小市民的です。
 危険な一歩を踏み出させるのは、高尚な革命思想なんかではなく、得てして魔性の女であったりするのですね。恐ろしいような、男としては本望のような……。

『われら』川端香男里訳、岩波文庫、一九九二