読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『そうはいっても飛ぶのはやさしい』イヴァン・ヴィスコチル/カリンティ・フリジェシュ

Vždyť přece létat je snadné(1963)Ivan Vyskočil / Karinthy Frigyes

『そうはいっても飛ぶのはやさしい』は、生まれ育った国も世代も異なるふたりの作家を抱き合わせた、非常に珍しい本です。
 併録は、ボリュームのある文学全集などではよくありますが、大して頁数の多くない単行本、かつ両者とも短編の寄せ集めというのが変わっています。

 イヴァン・ヴィスコチルはチェコの作家で、カリンティ・フリジェシュはハンガリーの作家です。
 さらに、カバーイラスト(写真)はリトアニア生まれで、ポーランドで活躍するスタシス・エイドゥリゲヴィチウスですから、何とも脈絡のない不思議な書籍といえます。

 収録作品は、ヴィスコチルの方は、『そうはいっても飛ぶのはやさしい』から八編(緑字)、『
Ivan Vyskočil a jiné povídky』から一編(紫字)を抜き出しています(※)。
 カリンティの方は、『Csodapók』(青字)、『A lélek arca I-II』(ピンク字)、『Följelentem az emberiséget I-II』(オレンジ字)からの選集です。

 このように謎だらけの編集方針ですが、謎なのはそれだけではありません。
 ヴィスコチルは、チェコスロバキア社会主義化、チェコ事件などの影響故、約三十年間の活動が国外へ伝わってこなかったそうで、日本からみると正に謎の作家といえます(ネットで調べると、小説家というより、劇作家、演出家として活躍していたらしい)。

 他方、カリンティは、百科事典の編纂を目指しつつ、生活のためにごく短いユーモア短編を書き続けた作家です。大百科事典を夢みていただけあって、彼が扱う題材は幅広い。人気があったのは引き出しの多さが影響しているのかも知れません。
 この本に収められた短編の発表年は分かりませんでしたが、恐らく一九一〇〜三〇年代に書かれたものではないかと思います。
 ちなみに、彼の息子は『エペペ』で知られるカリンティ・フェレンツです。

 ちょっとブラックなユーモア小説が好きであれば入手をお勧めします。

イヴァン・ヴィスコチル
アルベルト・ウルクの信じがたい昇進」Neuvěřitelný vzestup Alberta Uruka(1963)

 無職のウルクは、高校の同級生ニーマンに出会い、劇場の演出家として雇われます。演劇経験の全くないウルクですが、「君の感性で、自由に演じなさい」などといいつつ、適当に仕事をこなしてゆきます。やがて、俳優たちの反発を招くものの、飽くまで自分のペースを崩さないウルク(耳栓をしていて話を聞いていない)。その後、芝居は大成功を収め、ウルク主義という言葉まで生まれます。しかし、栄光は長く続かず、死が彼を迎えにきます。
 素人が簡単に昇進してしまう歪な社会を諷刺しているように読めます。勿論、ユーモアのセンスがあるため、そんなことを考えなくとも楽しめます。

飛ぶ夢、アルベルト・キシュカについての短いお話」Krátké vyprávění o Albertu Kyškovi, létacím snu(1963)
 空を飛ぶ夢を探し続けて、ようやくそれ(アルベルト・キシュカ)を手に入れる「私」。飛ぶ夢の四つのタイプや、人生から夢を削るとどうなるかといった説明が挿入されます。

ヤクプの落とし穴」Studnice Jakubova(1963)
 速くて便利な車を手に入れることが大人になる証と考えていたヨゼフですが、車を入手したところ、どこへゆけばよいか分からなくなってしまいます。そんなとき、後部座席に乗り込んできた婦人は、ヨゼフをヤクプと勘違いし、毒を盛ります。
 思い出や感傷という毒を持った女性の恐ろしさが描かれています。餌食になるのが無関係の男というのが変わっていますね。

とてつもない冗談」Ohromný fór(1963)
 若き芸術家のグループにお情けで入れてもらっているチーレック。彼は皆に馬鹿にされつつ、大工仕事をしたり、飲み代を受け持ったりします。ある日、飲み屋でネクタイ売りを追い払おうとして「ネクタイなんかいらない。首吊り用の紐なら欲しいけどね」と冗談をいったところ、ネクタイ売りは人数分の紐を持っており、グループのメンバーは次々に首を吊ることになりました。
 ヴィスコチル得意のブラックな短編です。同じチェコ出身の作家であるミラン・クンデラの『冗談』(1967)を思い出してしまいます。

快癒」Uzdravení(1963)
 健康に気を遣う余り、死人のほとんどいない村(最後に葬式があったのは十二年前)に向かう「わたし」。ところが、やってきた早々、具合が悪くなり寝込んでしまいます。
 死者が少ないのには理由があり、それに気づいたとき「わたし」は村を抜け出すことができなくなっているというホラーのような短編です。

師であり友である人は世に知られないまま残った」Učitel a přítel zůstal veřejnosti neznám(1963)
 医学部の三教室の教授が共同で論文を発表し、その献辞に「フランチシェク・J」とありました。彼は何者かというと……。
 偉い教授が集まって、あれをしているかと思うとおかしいですが、何を諷刺しているのかはよく分かりません。

エド・マルチネッツは供述する」Ed Martinec vypovídá(1963)
 膀胱と窃盗の罪で逮捕されたエド少年の供述(独白)のみからなるシナリオ形式の作品。ほとんど教育を受けていないらしきエドの無知(無邪気)さ加減に驚かされます。何しろ母親とは何かすら分からないのですから……。当時のチェコスロバキアには、こうした少年が数多く存在したのでしょうか。

そうはいっても飛ぶのはやさしい」Vždyť přece létat je snadné(1963)
 超高層ビルで成り立っているらしき世界において、ヴァイオリン教師を馘首されたレオポルドが高層階から飛び降ります。
 いわばそれだけの話とはいえ、近未来のアンチユートピアSFとして素材や雰囲気は素晴らしい。ヤン・ヴァイスの『迷宮一〇〇〇』はナチスの出現を予見したといわれていますが、こちらは社会主義国が齎す閉塞感と青年の絶望を表現しているように読めます。

ズビンダおじさんの〈冬外套〉」Onkel Zbyndas Winterrock(1971)
 ズビンダでも、おじさんでもないズビンダおじさんが外套を残して失踪します。そのコートを着てムルンコヴァー嬢と映画に出かけた「ぼく」は、コートのポケットに落ちてしまいます。そこは田舎だったので映画を諦め宿屋兼食堂へゆくと、ズビンダおじさんが現れました。
 おじさんは何でもポケットに突っ込む癖がありました。で、ついには世界までも放り込んでしまったというわけ。ぼくらは裏地のほつれから元の世界に戻ってきますが、外套はポケットのなかに忘れてきてしまいます……。落語の「頭山」みたいな不思議さがあります。

カリンティ・フリジェシ
迷子になった市電の話」Mese az eltévedt villamosról

 チンチン電車も赤ん坊の頃は旅行カバンくらいの大きさで、成長すると人を乗せる電車になるそうです。その前に乗られてしまうと……。

」Árnyék
 壁に映った影の人物たちと黄金の鍵を求めて冒険をする物語。幻想的な短編ですが、一瞬にして現実に戻す手並みが素晴らしい。

マルギトゥカの夢」Margitka álma
 主人に乱暴されていた馬を助けた少女マルギトゥカ。馬は、お礼にジョナサン・スウィフトが『ガリヴァー旅行記』のなかで描いた馬の国(フウイヌム)へ招待するといいます。ところが、マルギトゥカは、人間がそんなところへいっても仕方がないと断ります。
 夢のない話ではありますが、マルギトゥカのいうとおり、馬の国なんていきたくありません。っていうか、それは「馬が勝手に夢みてるだけ」というのがおかしいです。

ヴィジュアルな統計」Szemléltető statisztika
 一生分の量(例えば、生涯で飲むコーヒー、体内に取り込まれる微生物など)のあらゆるものが目にみえる形で迫ってくる男の話。一軒家くらいの牛や墓石くらいの石鹸などグラビアでみると面白いですが、実際に目の前にあったら不気味でしょうね。

心の顔」A lélek arca
 主人公は、神経衰弱気味だった若い頃によくみた幻影を科学的に再現することに成功します。それが何の役に立つのかは言及されていませんが、SF小説として様々に料理することができそうです。

開腹手術」Hasműtét
 高名な外科の教授には助手がふたりいます。いつも怒鳴られており、辞めてしまおうかと考えていたところ、教授のヘルニアの手術を担当するようにいわれました。とはいえ、手術中も教授が指示を出し続けます。そのおかげで見事成功し、助手は自信をつけます。
 ついつい手塚治虫の『ブラック・ジャック』を思い浮かべてしまいますが、実はイエス・キリストガリラヤ湖畔のカファルナウムで宣教を始めたという故事に因んでいます。

ある若者との出会い」Találkozás egy fiatalemberrel
 夢と希望に満ちた若き日の自分に出会い、妥協して生きているのを後ろめたく思い、ついつい饒舌になってしまいます。彼が去った後は、自慢の美しい妻もささやかな矜持もどこか虚しく思えてきます。

動物が好き」Szeretem az állatot
「私」が飼い始めた小さな兎の頭を撫でようとすると、兎は隠れてしまいます。兎にしたら人間も虎と同じ。強者が襲い掛かってくるとしか思えないのです。利己的でない愛情を理解してもらえないことに憤った「私」は……。
 動物を可愛がるなんてのは人間の勝手な都合に過ぎません。無私の愛といいつつ、報われないと怒り狂うのですから質が悪いです。
 
ドーディ」Dódi
 病気で寝込むドーディの部屋に、ドーディにしかみえない「悪い子」がいます。彼はドーディの大切なものをひとつひとつ奪ってゆきます。ドーディは両親が奪われないよう、「父さんも母さんも嫌いだ」と叫び部屋から追い出しますが、悪い子に差し出すものがまだ残っていることに気づくのです。
 死にゆく子どもを幻想的に描いた恐ろしくも美しい短編です。

靴のリボン」Cipőcsokor
 神話のような荘重さで祖父、父、自分という三代の歴史を語ります。その一族が死に絶えることになったのが、まさか靴のリボンを結んだためだったとは!

亀、もしくは居酒屋の中の気ちがい」Teknősbéka, vagy ki az őrült a családban
 精神療養施設に見学にきた医学生。そこで彼は看護師と部屋にふたりきりになり、互いに相手が危険な精神病患者と勘違いします。そこへ本物の患者が現れ看護師を取り押さえたので、医学生は彼を看護師と思い込み……という戯曲です。
 誰がまともで誰がまともでないか混沌となるという、喜劇においてよくあるシチュエーションで、正常と異常に差などないことを表しています。読んでも面白いけれど、動きがあるので上演しても楽しそうです。

※:ヴィスコチルの短編は『現代東欧幻想小説』にも三編収録されているが、それらは『そうはいっても飛ぶのはやさしい』でも読める。

『そうはいっても飛ぶのはやさしい』千野栄一岩崎悦子訳、国書刊行会、一九九二

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