読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ヴェルリオーカ』ヴェニアミン・カヴェーリン

Верлиока(1982)Вениами́н Алекса́ндрович Каве́рин

 ヴェニアミン・アレクサンドロヴィチ・カヴェーリンは、当時(ヨシフ・スターリンが死去したとき)忘れられた作家であったミハイル・ブルガーコフの復活に尽力したことでよく知られています。
 未完だった『巨匠とマルガリータ』や、発禁処分を受けた『悪魔物語』『運命の卵』『犬の心臓』などを僕らが今、読めるのはカヴェーリンのお陰といっても過言ではありません。
 一方で、『ヴェルリオーカ』には、『巨匠とマルガリータ』の影が色濃く写っており、悪魔の描き方などよく似ています(※1)。
 なお、ふたりには、ほぼ同時代に活動し、奇想を特徴としたという共通点があります。

「セラピオン兄弟」(※2)というユニークな名前の文学グループに所属していたカヴェーリンは、邦訳されているものに限るとファンタジー小説(『師匠たちと弟子たち』『地図にない町で』)と、社会主義リアリズム小説(『二人のキャプテン』)があり、『ヴェルリオーカ』は前者に該当します。
 カヴェーリン自身は幻想小説に情熱を捧げていたらしいのですが、当時の社会がそれを許さず、仕方なく社会派と呼べる作品も執筆したそうです。

 その辺の流れは、彼の処女作品集である『師匠たちと弟子たち』(一九二三)を読めば、容易く想像できます。
 とにかく一風変わった短編ばかりで、奇妙さではニコライ・ゴーゴリブルガーコフを遥かに凌ぎます。幻想小説メタフィクションの手法を用いた極めて人工的な世界なのですが、正直、寓意がまるで読み取れません。かといって、奇を衒っている風でも、デタラメでもない。笑いは少ないけれど、陰鬱というわけでもない点が、ほかに類をみない気がします。
「シュワルツ技師」の結末にも啞然とさせられます。しかし、それ以上にヘンテコなのが「ライプチヒ市年代記 18××年」です。
 物語の内部に作者が闖入し、自己言及を繰り返す正にメタフィクションの典型ですが、ややこしいのはそれぞれの章の時系列がバラバラにされている上、「この章は、不要だった」とか「この場所におくべきではなかった」とか「途中で書くのをやめた」などと煙にまかれる点です。しかも、最後まで読んでも大きな謎は解かれず仕舞い……。
 百年前のソ連で、こういう不思議なものばかり書いていたら、当局に目をつけられてもやむを得ないでしょうね。

 一方、『ヴェルリオーカ』は、『地図にない町で』同様、晩年の作品でもあり、児童向けでもあるので、わけの分からなさは控えめです(『地図にない町で』は短編集だが、『ヴェルリオーカ』は長編)。

 天文学者の想像のなかで成長した息子ワーシャと、小説や詩を書く少女イーワ。将来結婚する予定のふたりは、薔薇色の牡猫のフィーリャを連れ、少し早いハネムーンに出発することにしました。
 小さな魔法が使えるワーシャは、旅の途中で様々な人の呪いを解いてあげます。しかし、イーワが悪魔ヴェルリオーカに誘拐され、ワーシャとフィーリャは彼女を救い出すため。カサカサ町へと向かいます。

 いわゆるエブリデイマジックに分類されるでしょうか。舞台は一九八〇年代のソ連ですが、魔法を使えたり、猫が喋ったりし、人々はそれを奇妙とは思わないという設定です(ドラえもんを初めてみた人もまるで驚かず、「タヌキかと思った」なんていうのと同じ。どちらかというと、ロボットが喋るより、タヌキが喋る方が吃驚するような気がする)。
 主人公は十六〜十八歳なので、ヤングアダルト文学といえます。にもかかわらず、カヴェーリンは容赦なく複雑なメタフィクションを仕掛けてきます。
 作者が存在を主張するのは勿論のこと、主役のイーワが書いた短編や詩も挟み込まれます。しかも、彼女の詩は、カヴェーリンの孫娘カーチャ・カヴェーリナの作品ということですから、さらにややこしい。

 一方で、物語は単純です。
 ワーシャ(善)とヴェルリオーカ(悪)は、古代ギリシャ、中世のヴェネツィア、そして現代と転生を繰り返しながら戦い続けていますが、いずれも美女を巡っての争いで、まあ、舞台を変えて何度も戦うマリオとクッパみたいなもんです。

 ゲームのキャラクターを譬えに出したのには理由があります。
 前述のとおり、カヴェーリンは、小説にリアリティを求めず、作りものにこだわった作家です(リアリズム小説の執筆は本意じゃなかった?)。したがって、彼の幻想小説の登場人物は、まるで操り人形のようである場合が多く、感情移入しにくい面が多々ありました。
『ヴェルリオーカ』においても基本的には同じで、例えば、ワーシャは「自分たちは、紙の上だけで意味を持つ紙の王国にいる」と語りますし、悪の権化を倒したのに特別扱いしてもらえず、運命の手によって消し去られそうになったりします。おまけに、ヒロインのイーワは、途中でまるっきり影が薄くなってしまうのです。
 キャラクターを重視するファンタジーとは明らかに対極にあるといえるでしょう。

 けれども、『ヴェルリオーカ』は「恋人を救うために、巨大な悪と戦う冒険に出る」というシンプルな物語を選択したことにより、ロールプレイングゲームのような味わいが生まれたのです。
 何度話しかけても同じことしか答えない村人とか、これから大魔王と戦うっていうのに見知らぬ人の家のタンスの引出しを漁る勇者とか、色が違うだけの敵とか、月並みな世界征服を目指しちゃう敵のボスとか、パターン化された故のおかしさを感じることがありますが、『ヴェルリオーカ』もそれに似た滑稽さを備えています。

 勿論、今だからそう思うのであって、コンピュータRPGが一般的でなかった頃、「世界は何者かに操られていて、登場人物は一介のプレイヤーに過ぎない」なんてファンタジーを書き続けたカヴェーリンの先駆性は評価されるべきでしょう。
 官僚制への批判という読み方もできますが、そんなことよりも無機質な世界の雰囲気を堪能すべきだと思います。何ともいえない不思議な読後感が待っていますよ。

※1:『巨匠とマルガリータ』にはベルリオーズ(Берлиоз)という人物が登場する。ヴェルリオーカ(Верлиока)と似てる?

※2:名前の由来はE・T・A・ホフマンの『セラピオン朋友会員物語』(「隠者セラピオン」や「クレスペル顧問官」などが有名。創土社の「ホフマン全集」では4-1、2、5-1、2の四冊)だそうである。なお、「セラピオン朋友会」とは、ホフマンを囲んで仲間たちが定期的に語り合った会のこと。


『ヴェルリオーカ』田辺佐保子訳、群像社、一九九一