読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『トラストDE ―ヨーロッパ滅亡史』イリヤ・エレンブルグ

Трест Д.Е.: История гибели Европы(1923)Илья́ Григо́рьевич Эренбу́рг

 イリヤ・グリゴーリエヴィチ・エレンブルグの『トラストDE』(写真)は、日本において、一体、何回出版されたことでしょう。
 一九二九年の新潮社『世界文学全集』をはじめとして、民主評論社、修道社、河出書房新社早川書房学習研究社、海苑社などから繰り返し再刊されてきました(海苑社より復刊された際は「滅亡史」が「撲滅史」に変わったみたい)。

 それほど重要な古典であるにもかかわらず、例によって現在は絶版です。
 同時期に書かれたエヴゲーニイ・ザミャーチンの『われら』は一時品切れでしたが、今は複数の文庫で手に入るようになりましたので、こちらも復刊して欲しいですね(『われら』は一九二七年刊行だが、執筆されたのは一九二〇年頃)。

 エレンブルグは、ヨシフ・スターリンの死後に起こった自由化の動きを象徴する『雪どけ』(一九五四)が有名ですが、一九三〇〜四〇年代にはスターリン賞を受賞するなどマルクス・レーニン主義イデオロギーを持った作家として知られていました。
 一方で、若き日のエレンブルグは亡命、帰国、追放を繰り返していました(パリを中心に欧州各地を転々とした)。人類撲滅をテーマにした処女作の『フリオ・フレニトの遍歴』と『トラストDE』は、いずれもその時代に書かれた作品です(『トラストDE』のなかにフレニトの伝記が出てくるし、テーマが似ているので、両者は姉妹編といえる)。

 モナコ王子がオランダ女性に手を出して生まれたエンス・ボートは、美貌と野心を持った青年に成長します。無国籍人を自称し様々な職業についたボートは、やがて米国に渡り、「ヨーロッパ撲滅計画(Trust for the Destruction of Europe)」を立てます。
 三人の金持ちに近づき資金を調達したボートは、計画を実行に移します。フランスを操りドイツを壊滅させ、やがて感染症や飢餓、出生率の低下、ノイローゼなどによって欧州全土が荒れ地と変わり果てます。

 エレンブルグは『フリオ・フレニトの遍歴』のなかで、ユダヤ人の大量虐殺や、アメリカが日本のためにとっておく強力な爆弾(原爆)を予言しています。
『トラストDE』もナチスの台頭を予言したといわれていますが、こじつけであればいくらでも可能です。実際、作中に「人生においてはあらゆることがおそかれ早かれ起るという意識さえ捨ててしまえばこの男を予言者と呼びたいところである」なんて皮肉な記述があります。
 いずれにしても、人類に警鐘を鳴らすといった読み方に最早意味はないでしょう。

 この小説は、近未来SFというより、破茶滅茶な内容のブラックユーモアと考えた方がよいと思います。
「ヨーロッパの人間は、愛などというノイローゼ状態で行き当たりばったりに生殖し、その結果、三割弱の全く役に立たない者を生み出している。逆に、社会主義者無政府主義者共産主義者などの害虫を数多く生産している。それを止めるには、欧州を滅ぼしてしまうしかない」などといった、今ではとても書けないエレンブルグの愛に溢れた毒を楽しむべきです。
 なお、アフリカで、力はあるが、低能、従順、菜食の特殊な人間を作り、奴隷として輸出するなんて、とんでもないことまで書いてあります。壊滅したヨーロッパでも、生き残った人が獣人と化したり、とも食いしたりと、度を越した悪ふざけが延々と繰り広げられるのです。

 主人公のボートも、パトロンを殺して遺産を相続したり、ロシア共産党を去るとき党員らを殺しまくったり、結婚式をすっぽかして米国に渡ったりといった滅茶苦茶をします。
 それがルポルタージュのように飾り気のない文体で綴られているのがミソ。数多く散りばめられたブラックなギャグも、まるで常識であるかの如くあっさり書かれているので、却って頬が緩んでしまいます。

 そもそもボートが愛すべき欧州を撲滅するきっかけとなったのは、リュシー・フラメンゴという女性に素気なく振られたことです。
『われら』で主人公の運命を狂わせたのは恋愛でしたが、『トラストDE』でも大量虐殺の始まりが失恋というのが、いかにも人間臭くて不気味なリアリティを感じさせます。
 しかし、十九年ぶりに再会したリュシーはだらしなく肥満しており、ボートは幻滅します。

 そして、十二年の歳月をかけ、三億五千万のヨーロッパ人を殺害したボートは、今際の際に悟るのです。
 彼の本当の恋人は、ヨーロッパそのものであったことに……。

 正直、何だかよく分かりませんが、ひとりの人間の愛と憎しみを、これだけの規模で描いた小説はなかなかないのではないでしょうか。このスケールには、アドルフ・ヒトラースターリン毛沢東も敵いません。
 だからどうしたといわれると、困るけれど……。

『トラストDE ―ヨーロッパ滅亡史』小笠原豊樹三木卓訳、河出書房新社、一九七〇