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読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『星の切符』ワシーリィ・アクショーノフ

ロシア

Звёздный билет(1961)Василий Аксёнов

 アレクサンドル・ソルジェニーツィンが『イワン・デニーソヴィチの一日』で文壇デビューしたのが一九六二年。ワシーリィ・アクショーノフの『星の切符』は、その前年に出版されました。
 両者とも、当時はとても売れたそうですが、前者が今でも広く読まれているのに対し、後者は少なくとも日本ではほぼ忘れ去られているのではないでしょうか。

 その理由を考える前に、あらすじを記載しておきます。

 モスクワに住む学者の卵ヴィクトル(二十八歳)。品行方正な彼には、はみ出し者の弟ドミートリィ(十七歳)がいます。
 ドミートリィは、男女の仲間とともに放浪の旅に出ます。しかし、恋人を映画俳優に奪われてしまい、自身は漁業コルホーズで働き始めます。
 一方、ヴィクトルは、学位論文が教室の研究成果を覆すものと批判され、孤立してしまいます。
 やがて、恋人はドミートリィの元に戻りますが、ヴィクトルは……。

 この小説を一言で表現すると「いいとこのお坊ちゃん(優等生)の反抗」となるでしょうか。ロシア版『ライ麦畑でつかまえて』とか『赤頭巾ちゃん気をつけて』といってよいかも知れません。
 ただ、構成はかなり変わっていて、正直、かなり戸惑うと思います。
 というのも、第一部がヴィクトルの一人称で、彼が主人公と思いきや、第二部にヴィクトルは一切登場せず、三人称ではあるものの視点は弟を追いかけてしまいます。
 ごく短い第三部になると再びヴィクトルの一人称に戻りますが、第四部は何とドミートリィの一人称になるのです。
 で、終わってみると、ほとんどがドミートリィの物語だったことに気づくというわけ。おまけに、出番を奪われたヴィクトルには哀れな結末が待っています。

 さて、他国ではどうか知りませんが、『星の切符』や『同期生』(一九六〇)が日本で忘れ去られてしまった理由として、スラングを用いて描かれた青春小説であること、また、アクショーノフ自身も、彼の小説の主人公もインテリであることがあげられるのではないでしょうか。
 当時の流行や風俗を反影させた青春小説は、どうしても古びてしまいがちですし、虐げられた下層階級に比べ、エリートは読者に感情移入されにくいからです(アクショーノフは、父が医師で、母が小説家という家庭に生まれ、自身も医師である)。

 さらに、もうひとつ考えられるのが、僕らがロシア文学に抱いているイメージのせいという可能性です。
 ほとんどの人が、ロシア文学というとフョードル・ドストエフスキーとかレフ・トルストイのように「長くて重くて暗い」ものを想像するのではないでしょうか。
 そうだとすると、軽くて爽やかなこの小説は「何かが違う」、もっというと、こういう軟弱な小説を読みたかったら日本の文学を選べばよいわけで……。

 しかし、それこそがスターリン批判以後の「雪どけ」時代の空気なのではないでしょうか。その象徴というべきイリヤ・エレンブルグの『雪どけ』(一九五四)にしても、官僚主義への批判とも読めますが、基本的にはごく普通の恋愛小説です。
 それと同様に、『星の切符』も、市民が取り戻しつつあった自由な雰囲気を敏感に捉えたところに価値があると思うのです。

 例えば、作中、ヴィクトルは、このように語ります。
「おまえたちの場合には、わずか十年たらずのちがいにすぎないんだが、ぼくたちのときにはなかった何かこう特別のものがあるんだな」
 つまり、ヴィクトルとドミートリィの十一歳の年の差は、大きな時代の区切りになっており、ふたりが吸っている空気は、実はまるで別のものなのです。

 勿論、衝動的な暴力、無軌道な振る舞いなどとは無縁の情けない反抗だって、この作品には相応しいといえます。何も、人を殺したり、破壊したりするのばかりが文学じゃありませんからね。

 ところが、その後、アクショーノフは、チェコ事件に抗議したため作品の発表の場を奪われ、亡命を余儀なくされたそうです。言論統制が緩和されるのは、まだまだ先のことでした。

『星の切符』木村浩訳、集英社文庫、一九七七