読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『夜の冒険者たち』ジャック・フィニイ

The Night People(1977)Jack Finney

 外国語をカナ書きする際、最大の問題は、表記にばらつきが出てしまうことです。
 厄介なのが固有名詞で、このブログの場合、特に人名の表記に悩まされています。「統一のため、書籍に記されている著者名とは異なる表記を用いることがある」(※)としていますが、時代や慣習などの関係で、揃えるのが難しいケースもあります。
 ジャック・フィニイの場合、ルールに従うなら「フィニー」と書くべきです。実際、同じスペルのCharles G. Finney(『ラーオ博士のサーカス』)は「フィニー」にしています。
 しかし、それだと何となく気持ちが悪い。

『盗まれた街』を翻訳した福島正実が「フィニイ」としたのが定着し、時代が変わっても違和感を持たれずにきたのでしょう。また、彼の場合、『ふりだしに戻る』や「ゲイルズバーグの春を愛す」のようにノスタルジックな作風で知られているせいか、少々古めかしい書き方がしっくりくるという面もあります。
 というわけで、彼に関しては例外的に「フィニイ」と表記することにします。

 さて、フィニイは、大きく分けて二通りの長編を書いています。
 ひとつはファンタジーやSFに分類される作品です。こちらの方が有名ではあるものの、正直いうと少々かったるい。

 評価の高い『ふりだしに戻る』や『フロム・タイム・トゥ・タイム(時の旅人)』も、娯楽小説としては大した事件が起こらず、スピード感に欠けるので退屈してしまうかも知れません。
 特に『フロム・タイム・トゥ・タイム』は、主人公のサイが最後まで何ひとつ成し遂げられません。ラストは、テッド・チャンの「あなたの人生の物語」を思わせ(フィニイの方が先に書いている)、しみじみとなるのですが、いかんせんそこまでが長い……。
 切ない物語を好むなら、素直に短編の「愛の手紙」を手にした方がよいでしょう。

 また、『盗まれた街』や『夢の10セント銀貨』にもいえますが、解決の仕方が安易に感じられてしまいます。
 現代(元の世界)に戻ってきたり、宇宙人が勝手にどこかへ去っていったりすることで危機を脱するのは、最善の方法とはいえないと思います。

 ただし、『ふりだしに戻る』や『フロム・タイム・トゥ・タイム』は、十九世紀末と二十世紀初頭のニューヨーク観光案内としてなら十分すぎるほど楽しめます。
 当時の風俗や文化、街並みなどについてたっぷりと書き込んであり、上手くいけば読書を通じて古きよき時代へタイムスリップできるでしょう。
 エンタメ小説としては評価できませんが、これがあるためにバッサリ切り捨てられない不思議な作品たちです。

 もうひとつが『五人対賭博場』『完全脱獄』『クイーン・メリー号襲撃』といった冒険小説で、『夜の冒険者たち』(写真)もそちらに分類されます。
 ファンタジーと違い、まともなエンタメ小説なので、安心して読むことができます。ページを捲っている間は理屈抜きで楽しみたいという方には、断然こちらをお勧めします。
 特に『夜の冒険者たち』は、冒険自体に目的がないところが逆に楽しくて、フィニイのなかでは一番好きな作品です。
 あらすじは、以下のとおり。

 将来有望な若手弁護士であるリュウ・ジョリフは、マリン郡のアパートに住み、サンフランシスコの法律事務所に通っています。そのアパートには恋人のジョー、同僚のハリーとその妻のシャーリーも暮らしています。
 順風満帆の人生ですが、どこか満たされないリュウは、眠れない夜、町をうろつくようになりました。他人の庭のブランコを漕いだり、高速道路に寝っ転がったりといったささやかなスリルを味わうのです。
 そんな秘密の行動がシャーリーにばれて、今度は四人で夜の冒険を始めることになりました。

 冒険小説は、普通の人では到底体験できないことが描かれるケースが圧倒的に多い。
 秘宝を求め罠が張り巡らされた洞窟に潜ったり、ギャングと銃撃戦をしたり、パラシュートもつけずセスナ機から飛び降りたり、ときには剣や魔法を駆使することさえあります。
 けれど、僕らがそのような体験をすることはほぼ間違いなくないし、仮にあったとしてもヒーローになるどころか、一瞬でやられてしまうでしょう。

 一方、『夜の冒険者たち』は、いかにも男が考えそうな、下らなくて意味がなくて臆病な冒険が繰り広げられます。
 確かに格好よくはありませんが、今すぐにでも実行できそうなことばかり。それでストレスが発散できるのなら試してみたいと思わせる魅力があります。

 とはいえ、人のいない深夜に外出していたずらをするなんて、小学生か中学生が考えそうなことです。それを三十歳近い大人が嬉々として行なうのですから、まるで「大人になったら何になりたいか」とパパに聞かれ、「がき大将になりたい」と答えたのび太のようです(「ゆめふうりん」)。

 のび太と大きく異なるのは、四人とも何不自由ない暮らしをしているエリートだということ。
 普通の人なら、冒険に名誉や地位、金といった見返りを求めてしまうところでしょうが、彼らはそんなものには目もくれません。クルーズやハイキングよりも少しだけ危険な刺激を欲しているだけなので、深夜のショッピングセンターでシャンパンを飲み、ダンスをして、警官から逃げるといった、誰の得にもならない馬鹿騒ぎで十分満足できるのです。
 多少スノッブ臭さは感じるものの、誰にも迷惑はかけないし、行動が幼稚っぽいので、嫌な気分にはなりません。

 勿論、そうしたできごとは導入部に過ぎず、フィニイは次に大きな落とし穴を用意します。
 ある夜、マリファナを吸い、全裸になってポラロイド写真を撮る四人。それをハリーがポスターにして、図書館の本のなかに挟む。もし誰かにみつけられたら、将来、独立するため市議会議員を目指すリュウにとって大きな痛手となってしまう。回収するのは深夜しかない……といった事件をきっかけに、警官を殴り、銃や手錠を奪ってしまう。そのため、四人は夜逃げ同然に町を後にせざるを得なくなります。

 このできごとによって、彼らの立っていた地面は案外脆かったことが分かります。満たされた今の暮らしも、明るい未来も、それどころか彼らの存在すら簡単に抹消されてしまうのですから。
 そんな四人は、この町で生きた証を残すため、ゴールデンゲートブリッジの天辺に登り、ある仕掛けを施します……。

 ゴールデンゲートブリッジは自殺の名所としても有名ですが、リュウたちはこれまでの人生を捨てて、新しい旅路に就きます。
 職も住まいも失ったにもかかわらず、彼らに悲壮感はありません。今度の冒険は、一路順風でも虚しくもない、大いに充実したものになるのではないかと思わせる爽やかなラストは、そこに至る鬱憤をすべて吹き飛ばしてくれます。

※:例えば、『息吹、まなざし、記憶』の場合、書籍にはエドウィッジ・ダンティカットと記されているが、ここではエドウィージ・ダンティカとしている。

『夜の冒険者たち』山田順子訳、ハヤカワ文庫、一九八〇

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