読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ダイスマン』ルーク・ラインハート

The Dice Man(1971)Luke Rhinehart

 カルト的な人気がある小説というと、トム・デミジョン(ジョン・スラデックトマス・M・ディッシュの共作)の『黒いアリス』とか、ゴア・ヴィダルの『マイラ』とか、ヴェルコールの『人獣裁判』とか、チェスター・ハイムズの『ピンク・トウ』とか、ピエール・ギュヨタの『エデン・エデン・エデン』とか、モーリス・ポンスの『マドモワゼルB』とか、チャック・パラニュークの『ファイト・クラブ』なんかがパッと思い浮かびます。
 そこに、ルーク・ラインハートの『ダイスマン』も加わる資格があるかも知れません。

「サイコロを振って、出た目に従って強姦でも殺人でも犯す男の自伝」という形式の小説ですが、何よりびっくりするのは、それが必ずしも虚構ばかりではないという点です。
 作者と主人公は、名前(ペンネーム)、職業、年齢が同じというだけではなく、何と作者は本物のダイスマンだそうです。彼が勤めていた大学を辞めたのも、結婚したのもダイスの目に従ったせいだとか。
 勿論、作中の人物と違って犯罪は犯していないでしょうが、かなりの変人であることは間違いありません。

 ルーク・ラインハートは三十代の精神分析医。仕事も順調ですし、妻子もいて幸せな生活を送っています。
 しかし、毎日少しずつ患者の症状をよくして(あるいは悪くして)ゆくという作業に嫌気が差した彼は、ある日、ダイスを転がし出た目に従ってみることにしました。
 試行錯誤を繰り返し、次第にダイスマンに変貌してゆくルーク。また、彼は同時に、ダイス療法と称して、患者をダイスマンに変える実験を行ないます。それは強姦や不倫、乱交など何でもアリという過激なものでした。
 ルークの荒唐無稽な理論は最初のうち、同業者たちの激しい拒絶反応に遭いますが、次第に人々に受け入れられてゆきます。そんなある日、賽はルークに「殺人をしろ」と指示をしました……。

 あらすじだけみると、エロチックでキワモノのエンタメ小説と思われるかも知れませんが、実態はなかなか真面目……というか、下らなさを突き抜けた(?)作品です。
 アメコミの変身ヒーローとは異なり、ダイスマンは現代社会に巣食う心の病と戦います。

 例えば、人は「大人しくて、優しい」とか「協調性がなく、乱暴」といったレッテルを貼られると、そこから逃れにくくなります。つい与えられた役割を演じてしまいますが、実はそれほど首尾一貫した生きものでありません。優しい人だって意地悪をしたくなるときがあるし、乱暴者だって人に親切をしたくなるときがあります。
 そんな窮屈な生き方を打ち破るのがダイスの力です。
 ダイスマンになることによって、ふだんとは違う性格をランダムで発現させられます。隠されていた欲望が露になることもあるし、意外な一面に気づくこともあるでしょう。ひいては、それがアイデンティティの破壊につながり、多様化した新しい自己との出会いにつながるのです。

 それは心理療法としてのロールプレイングのようでもありますが、実際は、統合失調症と診断されてしまい兼ねない危険を有しています。社会にとっても、次の言動が全く読めないデタラメな隣人がいたら扱いに困るでしょう。
 けれども、ルークは、それこそが理想的な人間の姿であると主張します。

 さらに、ルークの思想は、宗教へとつながってゆきます。「ダイス療法」が「実験センター」を経て「ダイス教」となるのは必然の成りゆきといえるでしょう。
 ダイスは神の象徴です。ダイスの選択は、神が決めたことでもあり、それを遵守することによって信仰の深さを表すわけです。
 聖書ならぬ「賽の書」や、聖婆伽梵歌(バガヴァッド・ギーター)などが登場し、ますます胡散臭くなってゆきます。

 ダイスが決定した行動によって、人は日常から逸脱する快感を味わうこともできるし、罪を犯すことによる刺激を得ることもできます。しかし、飽くまで精神科医としての治療(あるいは実験)、さらには信仰が主目的であるため、物語としての派手さは余りありません。
 ルークの言動は次第に狂気じみてきますが、その展開に手に汗を握るというより、彼が真のダイスマンに変貌する心理課程を順を追って丁寧に読み解くことに主眼が置かれています。
 そう。この小説は、スリリングなストーリーにハラハラするのではなく、ひねくれまくった表現や、インチキな架空の理論、また、ルークの狂気がどこまで真実なのかを楽しむようにできているのです。

 不毛な議論や説得が延々と続き、なかなか先に進まないことを間怠っこしいと感じる人もいるでしょうが、そもそもそういう方は、こんな変な本を読む必要はありません。二、三十頁の時点で「放棄するか」「読み続けるか」の判断を下せばよいと思います。

 ちなみに、ルークはフィクションのキャラクター造形の面でも異質な存在です。僕は、かつて編集者に、こんなことをいわれたことがあります。
「コーヒー好きな人物を登場させたら、一貫してコーヒーを飲ませ続けなければダメだ。人間だから、紅茶が飲みたい気分のときもあるだろうが、エンタメ小説で、それは認められない。特にミステリーの場合、うっかり紅茶でも飲ませようなものなら、『これは双子の入れ替わりトリックだ!』なんて読み方をされてしまい兼ねない」
 そういう意味で、ルークのデタラメな行動は新鮮なのですが、文学として成功しているかといわれると微妙です。一貫性がないせいで、結局は余り印象に残らない人物になってしまったような気がするからです。

 とはいえ、本書は、精神医学、心理学、キリスト教、禅やヨガ、神秘主義カルト教団、ドラッグカルチャー、サイケデリックムーヴメントといった、いかにも一九七〇年代っぽい味つけがされており、個人的には怪しげで大好きな世界です。
 それらをすべて取っ払うと「様々なタイプの女たちと、アブノーマルな状況でセックスをしまくる精神科医」という二流のポルノ小説になってしまいそうなところも含めて、愛すべきB級カルト小説といえるのではないでしょうか。

 最後に。読んでいて、どうしても気になってしまったことがあります。それは「作者は、この小説を書くとき、ダイスを用いたのか」という疑問です。
 作中のルークは、何度も選択を迫られる場面があり、その度にダイスを振って、次の行動を決定しますが、それは作者がタイプライターの前で実際にサイコロを振って決めた展開だったのでしょうか。

 いうまでもなく、普通の小説であれば、執筆の方法などどうでもよいことです。ですが、作者と主人公が一体化した『ダイスマン』の場合は、それこそが重要になります。
 理論だけでなく、実践を伴ってこそ、ダイスマンによるダイスマンの物語が完成するからです。

『ダイスマン』は、自己を色濃く投影した渾身の一作だからこそ作者が以後、この小説を超えるものを産み出すのは非常に困難であり、実際、現時点では、そのとおりになっています……。
 過去の栄光にすがりたかったのか、一九八六年に『Adventures of Wim』、一九九三年に『The Search for the Dice Man』という続編を刊行していますが、残念ながら、いずれも邦訳されるほど話題にはなりませんでした。

『ダイスマン』南清訳、二見書房、一九七二