読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『藤子・F・不二雄大全集』藤子・F・不二雄


 これまでに数多くの失敗や、誤った選択をしてきましたが、後悔することはほとんどなく、「ま、いっか」で生きてきました。
 ところが、たったひとつだけ、悔やんでも悔やみ切れないことがあります。
 余りに悔しいのと、情けないのとで、これまで親しい人にも打ち明けることなく、心のなかに封印しておいたのですが、五年ほど前から、その残念な過去を思い出す機会が毎月のように巡ってきました。

 僕は漫画少年で、小学校の頃は、とにかく朝から晩まで漫画のことばかり考えていました。毎日、放課後になると、誰かの家に集まって、漫画を描いたり、漫画雑誌の編集をしていたのです(手描きの週刊漫画誌を発行していた)。
 将来の夢は、もちろん漫画家で、実際、仲のよい友だち(Iくん)とコンビを組んで作品を作り、真剣に投稿することも考えていました。
 合作ということでお分かりかと思いますが、僕らのヒーローは藤子不二雄藤子・F・不二雄)で、ほかの漫画家とは明らかに別格の存在でした。

 さて、小学四年生のときだったでしょうか。漫画仲間のKくんが川崎に引っ越してしまい、しばらくすると彼から、こんな連絡がありました。
「俺の家の近くに藤子不二雄が住んでいる。訪ねていったら、家に入れてくれた。お前たちもこないか」

 当時は、漫画家を訪ねると、家にあげてくれてサインをもらえる(あるいは、全ての小学生がそう信じていた)時代でしたから、僕とIくんはふたつ返事でオーケーし、早速、日曜日にKくんの住む街へ自転車でゆく計画を立てました。
 ところが、そのことを親に伝えると、「そんな遠くまで、自転車でいくなんて許さん」といわれてしまいました。
 横浜に住んでいた僕は、その当時、どこへゆくのも自転車でした。放課後、横浜駅や関内によく遊びにいっていましたが、確かに「川崎」は少し遠いという感覚があり、親の指示に素直に従ってしまったのです(当時の男子は「どんなに遠くても自転車でいけない場所はない」というプライドを持っていたため、電車でゆくという選択肢はなかった)。

「IくんがF先生と会えたのか」「サインをもらえたのか」については、正直、記憶が曖昧です。悔しすぎて自慢話を聞かなかったのかも知れませんし、記憶から抹消してしまったのかも知れません(F先生はその場でイラストを描くケースが少ないことは、後年知った)。

 ともかく、それ以来、「藤子不二雄の大ファン」ということを口に出せなくなり、今に至っています。この呪われた過去を毎月、思い出させられたのは、勿論二〇〇九年から始まった「藤子・F・不二雄大全集」のせいです。
 二十五日がくるのが楽しみで仕様がないのに、心が痛かった……。

 その「藤子・F・不二雄大全集」全百十四巻+別巻2が、本日、完結しました。
 F先生は、国民的人気漫画家でありながら、単行本未収録の作品が異様に多く、「児童漫画家故の宿命か」と半ば諦めていただけに、まさに感無量。
 小学生の頃、お会いするチャンスを逃してしまったという暗い過去が、少し薄らいだ気がします。

 漫画自体は勿論のこと、書籍としても素晴らしかった。
 作品の収録方法、巻末資料の充実ぶり、購入特典などから、編集者の情熱が十分に伝わってきました(懸賞の手ぬぐいが当選したことにも感謝)。

 しかし、不満もあります。
 それは、3期、4期と進むうちに尻すぼみになり、主に初期のA先生との共著、原作者つきの作品などの多くが漏れてしまった点です。権利の問題、あるいは「F全集に合作は相応しくない」といった考え方があったのかも知れませんが、完璧な全集を期待していただけに、少々肩透かしを食らいました(単に「売れない」からかも……)。
 ま、それらに関しては後日、別巻ないし小学館クリエイティブなどからチョロチョロ小出しに発行されそうです。価格はいくら高くても構わないので、せめて装幀や判型は揃えて欲しいと思います(※1)。

 前おきはこの辺にして、作品の感想に移りたいと思います。
 子どもの頃は疑問に思いませんでしたが、自分が小説を書くようになって感じたのは「どうしてF先生は、同じような作品ばかりを作り続けたのか」でした。
ドラえもん』だけを一生書き続けたというなら分かるのですが、多くの連載を抱えながら、どれもかなりの部分、似通っているというのは不思議でなりません。

 F先生は、新連載を始める際、編集者から注文があったり、相談をすることなく、自由に構想されることが多かったと聞きます。
 であるならば「次回作は、北海道の牧場を舞台にしよう」「五人のチームを活躍させよう」「ふたりの少年の友情をテーマにしよう」などと考えてもおかしくなかったと思うんです。

 いや、普通の漫画家であれば、差別化を図るため、意識して違った雰囲気の作品を作り出そうとするのではないでしょうか。
「児童漫画は仕事として割り切り、異色短編で好きなSFを思う存分描いた」という意見もありますが、あれだって連載漫画と激しくかけ離れているとは思えません。実際、『ドラえもん』『エスパー魔美』『T・Pぼん』などのエピソードのひとつだとしても違和感がない作品も多いです。

 幼児・児童向け漫画を極めた方なので、手塚治虫石森章太郎など、あらゆるジャンルに手を広げた同時代の人気漫画家たちと比較するのは間違いだと思います。
 また、当然、外側の事情もあったでしょう(「学年誌の連載だけで精一杯だった」「コンビだったため、青年誌や週刊漫画誌はA先生に任せた」など)。
 それらを十分承知しつつ、「なぜ、同じような作品ばかりを作り続けたのか」について、考えてみます。
 なお、僕は、それを否定的に捉えているわけではないことを、最初に断っておきます。

 よくいわれているように、F先生のほとんどの作品は「一話完結型で、日常生活のなかに不思議なものが紛れ込む」というパターンです(※2)。
 主人公の設定は、概ね以下のとおりで、【 】内は数少ない例外です(短編、大人向けの作品、初期の冒険・SF、『海の王子』や『21エモン』など日常生活を中心としない作品や、現代の日本が舞台ではない作品は除く)。

男の子【魔美、チンプイ
小学生以下【魔美、T・Pぼん
ひとりっ子オバQパーマン、Pポコ、パン太くん、仙べえ】
郊外の一戸建てに住むモジャ公
父親は個人事業主ではない【バウバウ大臣、パパは天才、きゃぷてんボン】
母親は専業主婦【魔美、T・Pぼん
祖父母が同居していない【例外が見当たらず(仙べえは祖父ではない)】
ペットを飼っていない【魔美、ミラ・クル1】
自家用車を持っていない【魔美、仙べえ、きゃぷてんボン(自動車で海へゆくシーンがあるが、マイカーかどうか分からない)

 例外が余りに少ないことに驚きます。
 繰り返しますが、この程度の設定なら、いくらでも変化のつけようがあります(『エスパー魔美』は、意図して変えようとしたように思える)。
 にもかかわらず、敢えてそれをやらなかったのは、やはり読者のことを第一に考えたからではないでしょうか。

 ひょっとすると小さな読者は、漫画に慣れていないかも知れない。彼らが、別の作品を読んでも戸惑わないように、なるべく似たような設定を選んだ。
 また、どこにでもいる平凡な家族が主人公ならば、年少の読者の想像力でも十分についてこられる。
 F先生は、そんな風に考えたのかも知れません。

 実際、この設定のおかげで、オバQを読んだ直後に、ドラえもんを読んでも、すぐその世界にのめり込んでゆけます。
 ゴジラジャイアンに変わっても、よっちゃんがしずちゃんに変わっても、それほど困ることはありません。
 幼い頭を悩ませない、本当に優しい設定だと思います。

 それは、F漫画のもうひとつの大きな特徴である「未完、あるいは明確な最終回のない作品が多い」ということにもつながります(※3)。

 これについても、昔はやや不満でした。
 きちんと物語を閉じるのが作者の責任である。それをしないと、作者が飽きてしまい途中で投げ出したと思えなくもないではありませんか。
 ところが、最近は「敢えて明確な最終回を描かなかったのではないか」と考えるようになりました。

 休止期間を経て連載を再開する場合のことを考えたというよりも、年少の読者に悲しい思いをさせたくなかったからという気がしてなりません。
 どのようなものであれ、終わりがくるのは寂しい。
 しかもそれは、のび太ドラえもんの別れではなく、間違いなく読者と登場人物の別れであるからです。

 後いくつか、どうしても書いておきたいことがあります。
 F先生は「児童漫画」といわれることが多いのですが、基本的には、おかしい漫画、笑える漫画、つまり「ギャグ漫画」を描いた方だと思っています。
 赤塚不二夫のように実験的なギャグが少ないため、笑いの部分が見過ごされがちですが、これだけ大量のギャグ漫画を作り上げたことも大いに評価されるべきではないでしょうか。

 唯一残念なのは、初期の一時期以外、少女漫画を描いてくださらなかったことです。間違いなく傑作が生まれていたであろうと思えるだけに、本当に悔やまれます。

 ちなみに、僕の藤子・F・不二雄作品ベスト3は、『21エモン』『パーマン』『エスパー魔美』になるかなあ……。

※1:早速、『名犬ラッシー』『藤子・F・不二雄の異説クラブ〈完全版〉』が追加巻、別巻として発売される。

※2:『海の王子』以後は、『ロケットけんちゃん』『すすめピロン』『すすめロボケット』『ロケットGメン』『とびだせミクロ』と、男の子と女の子がロケット(ロボット)に乗って戦うというよく似た作品が続く。

※3:一度終わったものの、再開された作品も多い。なお、はっきりと最終回が描かれた作品は少ないが、ほとんどが「不思議な友だちが去っていく」ことで物語が閉じられる(『キテレツ大百科』の場合は「奇天烈大百科」がなくなる)。例外は『21エモン』『モジャ公』くらいか。


藤子・F・不二雄大全集」1〜114、小学館、二〇〇九〜二〇一四

→『F VOICE藤子・F・不二雄
→「ジェイムスン教授シリーズ」ニール・R・ジョーンズ(挿絵)