読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『標的ナンバー10』ロバート・シェクリイ

The 10th Victim(1965)Robert Sheckley

 昨年末から、リチャード・マシスン、レイ・ラッセル、シャーリイ・ジャクスン、ジョン・コリア、ダフネ・デュ・モーリア、マルセル・エイメ、フレドリック・ブラウンの作品を断続的にですが取り上げてきました。
 海外のエンタメ小説に詳しい方なら、彼らに共通するものが何か、お分かりでしょう。

 そう。全員が早川書房の「異色作家短篇集」に収録された作家です。
 早いものでこの叢書の二度目の復刊から十年以上が経ち、品切れの本も少しずつ増えているようです。異色作家たちがまたもや忘却の彼方に消え去る前に、彼らのほかの作品も紹介しようと思い立ちました。
 全員分を連続して書くのは難しいので、気が向いたときに少しずつ更新したいと考えています。

 ロバート・シェクリイは短編の名手として知られていますが、今回は長編小説を選びました。といっても、『標的ナンバー10』の原型は短編です。
 シェクリイの短編「七番目の犠牲(Seventh Victim)」(一九五三)(※1)が、イタリアにおいて『華麗なる殺人(La decima vittima)』(一九六五)というタイトルで映画化され、それを元にシェクリイ自身がノベライズしたのが『標的ナンバー10』なのです(※2)。

 作者自身によるノベライズ(※3)と聞くとちょっと吃驚しますが、この頃、シェクリイは既に往年の輝きを失っていました。
 アメリカを離れヨーロッパを転々とする辺りから、彼は過去の作家になってしまうわけで、灯滅せんとして光を増すといったら失礼でしょうか。

 翻訳に関してもシェクリイは忘れ去られた作家といえそうです。
 シオドア・スタージョン、R・A・ラファティジョン・スラデックらは二十一世紀になっても新たな長短編が訳されています。
 他方、シェクリイは、新装版こそあるものの、未訳の作品は久しく出版されていません。それどころか、サンリオSF文庫から単著が一冊も刊行されていないということは、一九八〇年代の時点で、最早現役と見做されていなかったようです(※4)。
 手法が少々古臭く、読者の想像力を余り超えず、一見誰にでも書けそうに思えてしまう(かつては、シェクリイっぽい短編を書く作家が日本にも大勢いた)点が普遍的な人気を得られない理由かも知れません。

 とはいえ、歴史に名を残す作家なんてごく一握りですし、「昔、シェクリイって作家がいたなあ。俺、好きだったんだよね」なんて思ってもらえるだけで幸せなんじゃないかって気がします。
 実際、シェクリイの短編をたまに読み返すと、堪らなく懐かしくなります。僕にとっては、期待に胸を膨らませてSFを読んでいた頃を思い出させてくれる貴重な作家のひとりです。

 さて、『標的ナンバー10』と「七番目の犠牲」は、設定がほぼ共通しているのに、真逆の展開をみせるという珍しい例でもあります。片や優れた諷刺作家シェクリイが本領を発揮した短編、片や情熱的なイタリア映画向きに改造されたノベライズ。違いがはっきりしすぎていてとても面白いので、今回は両者の比較をしつつ、感想を書いてみます。
 まずは『標的ナンバー10』のあらすじから。

 戦争をなくすために考案された殺人ゲームが世界中で流行している二十一世紀。ゲームの参加者は、追跡者(Hunter)と逃亡者(Victim)を交互に繰り返し、計十回生き残ったら莫大な富と権力を手に入れることができます。
 ニューヨークの会社に勤めるキャロライン・メレディスは十回目の競技で追跡者に選ばれ、イタリア人のマルチェルロ・ポルレッティを狩るためローマに向かいます。コロシアムを貸し切り、観客を入れた上で、マルチェロを殺そうとしますが……。

 デスゲーム小説の元祖ともいうべき設定が楽しい。
 追跡者は逃亡者の名前を伝えられますが、逃亡者は敵が誰なのか分からない。にもかかわらず、無関係の者を殺してはいけないと定められています。また、ゲームは飽くまで一対一で行ない、他人に協力を依頼することは認められていません。
 こうした条件の下、殺すか殺されるかの駆け引きが繰り広げられます。これが現実なら逃亡者が不利すぎてゲームにならない気がしますけど、そこは虚構なので適当に誤魔化しつつ物語が進みます。
 ただし、中編程度のボリュームということもあって、二転三転するような複雑さはなく、あっさりとした薄味ではあります。

 注目すべきは、ノベライズだけあってシェクリイらしさはほとんど感じられず、いかにもイタリア映画らしいアレンジが施されている点です。
 追跡者は独身のアメリカ美人、逃亡者はイタリアのプレイボーイで、別れたばかりの妻と嫉妬深い愛人がいる(『華麗なる殺人』のキャストでいうと、ウルスラ・アンドレスマルチェロ・マストロヤンニ)。このふたりが出会うと、殺し合うのか、それとも愛し合うのか……といったら、イタリアなんですから当然、後者に決まっています。

 最後にふたりは「邪魔な愛人を始末し、大観衆や警察や国際殺人競技連盟の係員らを煙に巻き、教会で結婚」してしまう……。
 合法的とはいえ殺人に対する心理的な葛藤もなく、「結局、殺人ゲームとは何だったんだ!」と突っ込みたくなりますが、娯楽作品としてはそこそこ楽しめます。自分たちのこと以外はまるで考えていない身勝手さもフィクション故、許せてしまいます(恋愛なんて大抵、自分勝手だ)。

 一方、短編の「七番目の犠牲」は、正反対の方向へと進みます。

 人間狩りのベテラン、スタントン・フリレインは、新たな獲物に関する通知を精神浄化局から受け取ります。何と、今度の犠牲者はジャネット・マリー・パチグという若い女性だったのです。
 レストランで彼女をみつけたスタントンは、余りの無防備さに拳銃の銃爪を引くことができず、思わずジャネットに話しかけてしまいます。
 すると彼女は銃も持たず、部屋にも籠もらず、殺されるのを待っていると告白するのです。スタントンは可憐なジャネットを殺害するのをやめ、プロポーズするのですが……。

『標的ナンバー10』とは異なり、ハンターが男性で、獲物が女性です。また、十回というゴールはなく、死なない限り殺人ゲームをずっと続けることができます。ただし、十人殺すと「十人抜きクラブ」という名誉あるクラブに入ることができます。
 スタントンにとってジャネットは七人目の獲物ですが、ジャネットが何人殺しているかといった情報は与えられていません。

 殺し合いか、恋愛か、読者を惑わすところは『標的ナンバー10』と同様。しかし、こちらはシェクリイらしく前者へ針が向きます。ネタバレになるため結末は詳しく書きませんけど、期待どおりのオチが待っています。
 SF黄金時代のよくできた短編ですが、意外性という面では『標的ナンバー10』の方が上です。SFファンであれば、ノベライズと馬鹿にせず読んでみると新たな発見があるかも知れません。

 なお、僕がこの短編で最も好きなのは「今、正にジャネットに殺されようとする」スタントンが、次のように思う場面。

「なぜこの女が二十そこそこだと思ったのだろうという思いがかすめた。いま見れば−−よくよく見れば−−三十より若いなんてありえなかった」

 この一文に、男の弱さ、情けなさが見事に集約されています。さすがシェクリイ、こういうところが実に上手い。

※1:「七番目の犠牲」は『人間の手がまだ触れない』(ハヤカワSF文庫)に収録されている。

※2:『標的ナンバー10』の後、『Victim Prime』(一九八七)、『Hunter / Victim』(一九八八)という続編が書かれ、三部作となった。続編は未訳。

※3:シェクリイは『不死販売株式会社』が『フリージャック』として映画化されたときも、ノベライズを書こうかと申し出たそう。
 映画化に際して、作者自身が脚本を書くことはある(イアン・マキューアンの『イノセント(映画の邦題は『愛の果てに』)』など)が、ノベライズは珍しい。なお、実現はしなかったが、フィリップ・K・ディックには『ユービック』を自身でシナリオ化した『ユービック:スクリーンプレイ』がある。

※4:クリストファー・プリースト編のアンソロジー『アンティシペイション』に「隣は何をする人ぞ」が収録されている。変な双眼鏡を変な姿勢で覗く変な短編である。


『標的ナンバー10』小倉多加志訳、ハヤカワ・SF・シリーズ、一九六七