読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『スイミング・プール』フランソワ・オゾン

Swimming Pool(2003)François Ozon

 フランソワ・オゾン監督の『スイミング・プール』は、ひどい映画でした。
 人物造形もストーリーも滅茶苦茶で、最初から回収する気のない謎を投げっ放して終わるという質の悪さが目立ちます。
「どう解釈しようが自由」なんて無責任極まりなく、製作者が正解を用意しなくてよいのなら、どんなものでも作れてしまいます。でも、それはミステリアスとは違う、ただの出鱈目です。
 例えば、デヴィッド・リンチの映画、特に傑作といえる『マルホランド・ドライブ』と比べると、粗さばかりが目につきます。

 通常であれば、詰まらない映画をみた後は、そんな風に文句をつけて記憶から消し去ってしまいます。しかし、この映画は少し違います。
 というのも、『スイミング・プール』は監督自身によるノベライズが発行されているからです。これまた普通は映画のノベライズなんて手に取ることは滅多にないのですが、もしかすると小説版は、少なくとも謎を読み解こうと思わせるくらいのレベルにはなっているかも知れないという期待を抱き、購入しました(※)。

 結論から先にいうと、小説には明確な解答が用意されています。
 それだけでも映画よりはマシといえます。しかし、ミステリーとして質が高いかというと……。これは、後ほどじっくり述べることにして、まずは書誌について。

スイミング・プール』(写真)は、普通の文芸書と趣が大分異なります。
 サイズはB6判で青年コミックと同じですが、それを九十度回転させているので、横に長い本という印象になっています。それでいて縦組みですから、一行当たりの文字数が少なく、行数が多い。慣れるまでは少々読みづらいかも知れません。

 また、「PHOTO小説」とあるように、映画のスティル写真(カラー)がふんだんに収録されています。アート本のように綺麗なので、購入される際は、半透明の帯のついた、状態のよい古書を探すことをお勧めします。
 一方、不満はヌードの写真が一枚もないこと。サラ・モートン役のシャーロット・ランプリングの裸も、ジュリー役のリュディヴィーヌ・サニエの裸も全く採用されていません。特にサニエは、服を着ているよりトップレスのシーンの方が多いくらいでしたが、それらはすべてカットされています(水着ないしは背中や肩までの露出が精一杯)。
 そういうのに喧しい時代なのかも知れませんけど、この映画から裸体を除いたら果たして何が残るのやら……。

 オゾン本人が書いたのかどうか分かりませんが、小説としてはいかにも素人っぽく、描写もスタッフへの指示みたいです。おまけに訳文も上手いとはいえません。例えば、こんな感じ。
「広いオフィスだ。広い窓からの眺望も素晴らしい。だが、簡素だ。華美な装飾はない。あくまでも機能的だ。とはいえ無機質というものでもない」
 ま、下手に凝っていない分、読みやすいともいえるし、この小説の場合、文学としてどうこうではなく、謎の提示と回収が上手くいっているかに焦点が絞られるため、それ以外の点は不問とします。

 なお、今回はネタバレ抜きに感想を書くのは困難です。
 そのため、既に映画や小説を鑑賞したか、する気のない人のみ、以下の文章をお読みください。


 英国人のミステリー作家サラ・モートンは、愛人関係にある出版社の社長ジョンに誘われ、リュベロンにある彼の別荘に向かいます。ジョンは「仕事を片づけたら追いかける」といいますが、サラは彼が決してやってこないことを察しています。公私ともにジョンを信頼し独身のまま中年になったサラに対し、ジョンには家庭があります。ジョンにとって、流行作家となったサラはビジネス上重要な存在ですが、愛は冷めているようです。
 プール付きの別荘に到着したサラは、別荘にも周囲の環境にも控えめな管理人のマルセルにも満足し、いつになく執筆が捗ります。しかし、静寂を破ったのは、突然やってきた奔放な娘ジュリーでした。ジョンに娘がいることは聞いていましたが、別荘にやってくることを知らなかったサラは迷惑しつつも、ひとつ屋根の下で過ごすことになります。
 食器を片づけない、全裸で泳ぐ、男を連れ込んで情事に耽るといったジュリーの行動に苛立つサラですが、次第に彼女に関心を寄せ始めます。ジュリーの日記を盗み読んだり、母親マリーについての話を聞いたりし、ジュリーについての小説を書くようになります。
 やがて、ジュリーは町のカフェで働くフランクという青年を連れ込みます。フランクはサラとも顔見知りで、互いに惹かれ合うものを感じていました。深夜のプールでふざけ合うジュリーとフランク。しかし、翌朝、ジュリーはフランクを殺したことをサラに打ち明けます。
 サラとジュリーは庭に死体を埋めます。不審に感じたマルセルは、サラが巧みに誘惑し黙らせました。
 その後、ロンドンに戻ったサラは、新作をジョンに読ませますが、彼は出版しない方がよいとアドバイスします。ところが、その作品は既に大手の出版社で製作されており、サラは新刊見本をジョンに渡します。
 帰り際、受付に冴えない少女がいて、彼女こそがジョンの本当の娘ジュリアであることが分かります。

 映画はここで終わっていたため、何やらさっぱり分かりませんでした。
 小説はラストシーンにオゾンが用意した答えが記述されています。が、それに触れる前に、ミステリー小説(映画)として成立するための最低限の条件を三つ押さえておきたいと思います。このうちひとつでも外した場合、高い評価を与えるわけにはいきません。

1 現実にはありえない設定を用いても構わないが、読者や観客を納得させるような整合性・(屁)理屈・いいわけが存在すること。
 例えば、ジュリーはサラが生み出した幻影だとしたら、サラ以外の人に認識されてはいけない。


2 伏線はすべて回収されること。
 ミステリーであるならば、誰もが納得する解釈が必要である。「犯行前に必ず腕時計を外すのは、犯人が父親の束縛を逃れていないことのメタファーである」なんていい出したら、何でもアリになってしまう。

3 エンターテインメントとして、読者や観客を楽しませてくれること。
 例えば「サラは神で、すべてが思うがまま」などという解釈は、驚かないし面白くもないので認めない。


 映画において表現されなかった明確な解答とは「別荘でのできごとはすべて、サラの作り出した虚構だった」というものです(本当はこの解釈も、ちと苦しい……)。
 ジュリーだけが架空の人物とする説は、ジュリーが第三者に認識されていること、サラとジュリーが第三者の前で同時に存在することから排除します。
 要するに、サラは執筆中の小説のなかに入り込み、自ら体験したことを作品として仕上げているわけです(マルセルやフランク、ジュリーのモデルとなったマリーの写真などは実在するかも知れないが、虚構のなかの彼らとは別人と考えられる)。

 恋愛小説でデビューしたサラは、ジョンの指示に従って「ドーウェル刑事」というミステリーを書き、人気シリーズに育てたものの、最近、行き詰まりを感じています。出版社の社長であるジョンとしてはドル箱のシリーズを書き続けて欲しいのですが、サラは別の作品を執筆したいと考えています。
 そこで、女としての自分を必要としなくなったジョンに対する意趣返しとして、わざわざ彼の別荘を舞台にした新作を書くことにしたのです。勿論、ジョンには「ドーウェル刑事シリーズの新作」と偽って。
 できあがった新作は、あらゆる年代のサラを反映したサラ自身の物語でした。
 これによってサラは、作家としても成長したいと考えています。彼女にとって最も大切なのは、やはり「小説を書くこと」だからです。

 身勝手な男性に対する孤独な中年女性の精一杯の復讐と考えると、なかなか面白いアイディアです。陰湿でない分、後味も悪くない。サラに興味のないジョンに新作が酷評されることを見越して、大手の出版社とちゃっかり契約しているところも、それまでになかった強かさを感じます。
 もう若くはないけれど、女として、また作家として漸くひとり立ちする様を描いた作品だとすると及第点をあげられます。

 ただし、ミステリーとしては、上記の条件をほとんど満たしておらず、評価に値しません。何度もいいますが、映画より少しマシといった程度です。

 まず、1ですが、サラが自作のなかに入るのはよいとして、自分がそれに気づいていないのはおかしい。
 例えば、「ジュリーはジョンの娘ではない、別の誰かである」と思わせようとしている箇所が数多くあります(ジョンは週末に娘と約束があるといいつつ、ジュリーだけが別荘にくる。ジュリーがジョンと電話で話した後、サラに代わると電話が切れていたなど)。しかし、サラは自分の作った世界にいることを承知しているのですから、ジュリーが何者かなんて悩むはずはないのです。
 実際、ラストシーンで、サラはジョンの本当の娘ジュリアと会っても驚く素振りはみせず、「ジュリーの設定を少し変更しなければ」などと考えます。

 要するに、ジュリーの存在は読者をミスリードさせるためだけの仕掛けであり、フェアであるとは到底いえません。

「サラの書いている小説にサラ自身も含まれる」という見方もできますが、そうすると最初に戻って、虚構のなかにおける「ジュリーとは何者か」「殺人は本当に行なわれたのか」という謎の答えが必要となります。それが用意されていないのですから、話になりません。

 2は、伏線らしきものとして「十字架」「顔中傷だらけのマルセルの娘」「小説を書いていたジュリーの母親」などがあげられます。
 基本的に、これらについての明確な解答はありません(ジュリーのお腹の傷だけは、マリーが無理心中を図ったときのものと説明されている)。無理矢理解釈すると、十字架を隠すのは罪の意識故とか、フランクを殺したのは実はマルセルだったといった具合。

 勿論、映画ではこうした手法がよくみられます。リンチの作品なんかは、それらをつなぎ合わせて自分なりの答えを導き出さないと何のことやらさっぱり分からない。
 そのため、この技法が悪いというわけではありません。問題は観客が納得するかどうかで、「なるほど。あのシーンにはそういう意味があったのか」と感心するならよいのですが、「意味ありげなシーンを適当に配置しておけば、観客が勝手に解釈してくれると考えてやがる」と思ってしまったら製作者の負けではないでしょうか。

 逆に、ジュリーがサラの作った架空の人物であることを読み解くための伏線がほとんどないのも残念です。マリーの若い頃の写真だけで真相に辿り着けというのは無理があります。
 例えば、冒頭の地下鉄の場面で「Julie」と書かれたポスターをサラが眺めるなど創作のきっかけとなる伏線を挿入するだけで、印象は大分違うと思うのです(JulieとJuliaは確かに似ているが、ジュリアはラストに初登場するので完全な後出し)。

 最大の問題は3です。前述したとおり、恋愛ものならば合格かも知れませんが、ミステリーとしては今さら驚くような仕掛けとはいえません。
 そもそもサラの書いている小説が全く面白くない。ふだん書いているミステリーとは違うとはいえ、「女ふたりが男を殺して埋めた」という事件が起こっていながら、前述したとおり虚構内での謎解きが一切なされていないため、何の意味もない代物と化しています。
 こんな小説を出版しても、ジョンのいうとおり文学おたくですら見向きもしないでしょう。

 虚構の部分をしっかり作り込み、誰もが納得する謎解きをした上で、「実はサラやジョンは、その上の階層にいたのだ!」とやれば、目新しくはありませんが、良作になっていたかも知れません。
 結局のところ、すべてが杜撰すぎて、それ故、観客を無駄に悩ませる、何とも罪深い駄作ということになります。

 ……と、随分辛口になりましたが、自分と同じ歳で、才能があり、女優を裸にでき、イケメンでもあるオゾンに嫉妬しているわけではありませんよ。
 特別好きな監督ではないけれど、『17歳』はまあまあよかったです。

※:オゾンは『8人の女たち』のノベライズも出しているが、こちらはロベール・トマの戯曲が元になっている。

スイミング・プール』佐野晶訳、アーティストハウスパブリッシャーズ、二〇〇四

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