読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ハンバーガー殺人事件』リチャード・ブローティガン

So the Wind Won't Blow It All Away(1982)Richard Brautigan

 翻訳文学を楽しむ者にとって、リチャード・ブローティガンといえば藤本和子です。その結びつきが強すぎて、果たしてどちらを好きなのか分からなくなるくらい。一九七〇年代、本国では忘れられた作家となっていたブローティガンが日本で人気を保っていたのは彼女の功績が大きいでしょう。
 けれど、ブローティガンの遺作となった(生前最後に出版された)『ハンバーガー殺人事件』(写真)は、藤本が翻訳しなかった数少ない作品となりました(小説では『愛のゆくえ』もそう)。

 藤本は、『不運な女』の「訳者あとがき」で、こう書いています。
「一九八三年のある日、『ハンバーガー殺人事件』(晶文社)の原作が出版されたあとのことだった。その翻訳もしてもらえるかとリチャード・ブローティガンにいわれて、だいぶたってからでないと時間がとれそうもないから、こんどは遠慮させてほしいと、わたしは重い心で答えた。それがかれに会った最後だった」
 何とも皮肉な話です。その後に執筆された『不運な女』が発見されていなければ、悔やんでも悔やみ切れない選択だったかも知れません。

 実をいうと『ハンバーガー殺人事件』は、ある選択が取り返しのつかない事態を招いてしまう物語です。
 一九四八年、オレゴンに住んでいた十二歳の主人公は、ハンバーガーを買うかライフルの弾を買うか悩み、弾丸を選びます。その結果、果樹園において友人を射殺してしまうのです。
 彼は、その事件を含む少年時代を、約三十年後に振り返ります。釣りをする際、池の辺に家具を並べる夫婦、アル中の夜警、梱包用の木材でできた小屋に住む老人、手の冷たい葬儀屋の娘、ミミズを買い取るガスステーションの親父など、奇妙な人々の思い出が甦ります……。

 ブローティガンは、初期の作品(長編でいうと『愛のゆくえ』までか)と比較すると、後期はどうしても輝きが乏しいといわれています。作者の内部に変化が生じたせいなのか、ごく普通の小説の体裁に近づいてしまったせいなのか、ホラー、ミステリー、ハードボイルドといった形式とマッチしなかったのか、それとも時代のせいなのか、僕には分かりません。
 が、『ハンバーガー殺人事件』は、それらとは少し違っているように感じます。

 若い頃、ブローティガンは銃で友人を負傷させたことがあるそうですし、ほかのエピソードのいくつかも娘のアイアンシ・ブローティガンの『You Can't Catch Death』に出てくるそうなので、この小説は半自叙伝と考えてよいかも知れません。
 だから価値があるとはいえないし、実際、切れ味は鋭くない。全盛期の息が詰まるような切なさや、思わず小膝を打ちたくなるような絶妙な比喩もさほど多くはみられません。
 けれど、ファンタジーに逃げることなく、きちんと過去をみつめ直し、社会に適合できないダメ人間を真正面から描こうとした点に好感を覚えるのです。

 この小説の原題は、各章の終わりに書かれた "so the wind won't blow it all away...Dust...American...Dust" (風が吹いてもアメリカの塵はなくならない)から取られています。
 そもそもブローティガンの小説の登場人物は、ほとんどがヘンテコで、まともな社会生活を送れそうもない人間ばかりです。いわば彼らは、巨大なアメリカにおいて塵に等しい存在です。
 しかし、ちっぽけな塵たちは、風が吹いたくらいでは消えない。いや、消えたと思っても、またどこかに吹き溜まります。

 勿論、ブローティガンの分身である主人公は、その代表です。社会に対する違和感を抱えたまま少年から大人になり、今も惑い続けている……。彼は夢のなかでさえ、自ら体験せず眺めていることしかできないのです。
 その後、ブローティガンは拳銃自殺という選択をしてしまいましたが、現実を生きづらく感じている僕は、今も彼の作品に随分と救われています。
 あ、明日から会社か……。でも、何とか乗り切って、家に帰って好きな本を読もう……とかね。

ハンバーガー殺人事件』松本淳訳、晶文社、一九八五

→『バビロンを夢見て ―私立探偵小説一九四二年リチャード・ブローティガン

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