読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『予兆の島』ロレンス・ダレル

Prospero's Cell: A guide to the landscape and manners of the island of Corcyra(1945)Lawrence Durrell

 前回はジェラルド・ダレルによるコルフ島(ケルキラ島、コルキュラ島)滞在記を扱いましたが、今回はその兄ロレンス・ダレルのコルフ島紀行です。
 ロレンスは英国人でありながら、インドで生まれ、一時英国に帰ったものの、コルフ島、アテネクレタ島アレクサンドリア、カイロ、ロードス島、アルゼンチン、ユーゴスラビアキプロス島、フランスなど世界各地を転々とし、紀行、風土記の類を残しています。
 邦訳されているものでは、ロードス島を舞台にした『海のヴィーナスの思い出』、キプロス島を舞台にした『にがいレモン』があります。

『予兆の島』は、『黒い本』の執筆直後、ヘンリー・ミラーギリシャ紀行『マルーシの巨像』に影響され書き始められた、日記形式の郷土史です(ジェラルドの本は一九三五年から一九三九年までの五年間のできごとを記したものだが、ロレンスの方は一九三七年四月十日から一九三八年九月二十日までの日記が中心になっている)。
 簡単にいうと、ロンドンでボヘミアン的生活をしていたロレンスと妻のナンシー(画家。この本ではNと記される)は仲間に誘われ、太陽と海の恵みに満ちたコルフ島に渡り、そこでの体験と歴史を習作としてまとめたって感じでしょうか。

 このとき、『黒い本』はまだ出版されておらず、ロレンスは海のものとも山のものともつかないアーティストもどきに過ぎませんでした。それ故、日記は自己陶酔や矜持が溢れており、よくいうと詩的、悪くいうと思いっ切り格好つけた文章で構成されています。
 彼は『予兆の島』を一九四五年に出版しましたが、その十一年後に刊行されベストセラーになったのが弟ジェラルドの『虫とけものと家族たち』です。
 続編の『鳥とけものと親類たち』には、ロレンスが『虫とけものと家族たち』について「あのディケンズカリカチュアがぼくの文学的イメージに与えた打撃たるや正に致命的だよ」と嘆くシーンが出てきます。ジェラルドの描くロレンスは、『予兆の島』のイメージをぶち壊す、口は達者だが、行動の伴わないずっこけキャラになっていますので、文句をつけたくなる気持ちも分からなくはありませんが……。

 実をいうと、『予兆の島』に家族はほとんど登場しません。ロレンスとナンシー、そして友人たち〔そのなかには、ジェラルドの本でもお馴染みのセオドロス(セオドア)・ステファニデスもいる〕が主な登場人物なのです(次男のレズリーだけは、Lや弟として、ちょっとだけ出てくる)。
 愛すべき母も、冒険好きのジェリー少年も無視し、ダレル一家に親切にしてくれる現地人のスピロは完全に馬鹿扱いしていることから、「この世界は感受性の強い賢く美しい若者のみで成り立っており、醜い年寄りなど目に入らない」と主張したいのでしょう(例外は隠者のD伯爵。ジョン・ファウルズの『魔術師』に出てくるモーリス・コンヒスみたいな老人)。
 青年の頃は、誰しも似たような錯覚に陥るので、別に不快でもないし、馬鹿馬鹿しくもありません。寧ろ若者の不遜さに微笑ましさを感じます。

 一方、文学的修飾を施してありますが、沈鬱さは皆無です。
 例えば、若くして亡くなったジャン=ルネ・ユグナンの『荒れた海辺』ないし『荒れた海辺の日記』(邦題を似せただけで両者は特に関係ない。前者は小説で、後者は日記)が若者の苦悩に満ちているのに対し、『予兆の島』はのびのびと青春を謳歌している様が描かれます。
 そもそも、ダレルたちがコルフ島を訪れたのは傷心したわけでも、行き詰まったわけでもなく、既にコルフにきていたグループの仲間に誘われたからです。陰鬱な気候のロンドンと異なり、素晴しい自然と陽気な人々に囲まれたギリシャ。そこで、気の合う友人と酒を飲んで、思う存分、芸術談義に花を咲かせられるのですから、楽しくないわけがありません。

 そのせいでしょうか。ロレンスとジェラルドの本は、底を流れるものが共通しているように思えます。
 動物や昆虫に夢中な少年と、性や美の魅力に取り憑かれた青年とでは感じ方が異なりますし、大人になって本を書くにあたっても、家族と仲間たちの思い出を懐かしく振り返るエッセイと、日常の異化を目指した文学とでは表現方法も違うにもかかわらず、印象が似通ってしまうところがとても不思議です。

 また、副題に「A guide to the landscape and manners of the island of Corcyra」とあるとおり、『予兆の島』は日記のみならず、地誌としての側面もあります。
 例えば、聖スピリドンや英雄カライヨジスは一章丸ごと使って紹介しています(※)。特にカライヨジス(写真)については、人形芝居を観に集まった人々も合わせて描写しており、島に娯楽や文化として浸透している様がよく分かります。
 若き文学者が出会った土着の信仰や風習、芸能、原始的な人々との交流、漁師が多いといった点は、僕の大好きな山本周五郎の『青べか物語』とも共通点があるような気がします(山本と違って、孤独感や将来に対する焦りは感じられないが)。

 なお、ホメーロスの『オデュッセイア』で、難破したオデュッセウスが辿り着いたスケリア島(ナウシカアの住む島)は、現在のコルフ島といわれています。
 しかし、これは時間と距離の感覚を持たなかった古代ギリシャ人のいい加減な設定のせいで、無理が生じているとか。何しろ物語どおりだと、オデュッセウスは数海里を十八日もかけて航海したことになってしまうからです。

 一方、原題の『プロスペロの岩屋』(帯にはこちらのタイトルが書かれている)ですが、プロスペロというのは、ウィリアム・シェイクスピアの『テンペスト(あらし)』の主人公の名です。そして、舞台となった島こそがコルフ島だとD伯爵は主張するのです。
 その根拠のひとつが、怪物キャリバンの母である魔女シコラクス(Sycorax)が、コルフ島の旧名コルキュラ島(Corcyra)のアナグラムになっているというもの(実際は不完全)。ほかにも「真水の湧く泉、塩水の坑、やせた土地、肥えた土地」という島の特性が共通しています。説得力は余りありませんが、なかなか面白い説です。

 自然の美しさ、食べ物の美味しさ、暮らしやすさのみならず、知的欲求も十分に満足させてくれる幸福な日々が本当に羨ましい。
 ロレンスが以後、地中海の島々や街に取り憑かれたのも、コルフ島での充実した時間を体験したからこそでしょうね。勿論、『アレクサンドリア四重奏』も、その豊かな実りのひとつです。
 ジェラルドのコルフ三部作と併せて、ぜひお読みください。

※:ナンセンス詩で有名なエドワード・リアのコルフ島滞在についても一章設けるつもりだったが、紙不足故、実現しなかったらしい。
 ちなみに、『ナンセンスの絵本』に載っているコルフ島のリメリックは以下のとおり。
  コルフの男することなし
  そこであちこち歩きっぱなし
    ほっつき歩いてほとほと嫌気
    それでとうとうこんがり日焼け
  とことんひまな男の話
           (柳瀬尚紀訳)


『予兆の島』渡辺洋美訳、工作舎、一九八一

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