読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『三等水兵マルチン』タフレール

Pincher Martin, O. D.: a Story of the Inner Life of the Royal Navy(1916)Henry Taprell Dorling

 ウィリアム・ゴールディングの『ピンチャー・マーティン』の感想を書いた際、少し触れたヘンリー・タフレール・ドーリング(ペンネームは、タフレール)の『三等水兵マルチン』。
 特に入手する予定はなかったのですが、あの記事を書いた数日後、神保町をブラブラしていて、偶然、昭和四年発行の「世界大衆文学全集」第三十一巻をみつけました。カバー付で、比較的コンディションがよく、価格も当時の定価(五十銭)の千倍に過ぎなかったので、これも何かの縁だろうと思い、購入しました。
 本っていうのは、このような形で手元にやってくることが多いんですよね。不思議なものです。

 改造社の「世界大衆文学全集」はハードカバーだけど、文庫本サイズなのでスペースを取らないところがありがたい。当然ながら、旧字、旧仮名遣いですが、総ルビのため、若い人でも問題なく読めるでしょう。
 口絵には、この小説を翻訳した福永恭助の軍服姿のポートレート写真)が掲載されており、時代を感じさせてくれます(※)。
 なお、『三等水兵マルチン』は、「世界大衆文学名作選集」にもラインナップされているので、そちらを入手してもよいと思います。

 王立海軍の前弩級戦艦ベリジェレントに乗り込んだ新人水兵のウィリアム・マルチン。彼は、訓練や喧嘩、恋など、海軍生活を満喫していましたが、やがて第一次世界大戦が始まります。
 ドイツ軍の攻撃に遭いベリジェレントが沈没した後、マルチンは駆逐艦マリナーに乗り換え、壮絶な海戦へと赴きます。

 マルチンは三等水兵と書かれていますが、原題ではODとあります。ODとは何の略なのでしょうか。Officer Designate(見習士官)ではなさそうだけど、軍隊の階級はややこしくて、僕にはよく分かりません……。
 しかし、序盤は、水兵の日常生活や仕事、訓練、規律、娯楽などが丁寧に描かれるので、知識がなくとも難なく作品の世界に入ってゆけます。

 さらに、ジョルジュ・クールトリーヌの『八時四七分の列車』同様、兵士たちのおかしな癖や性格、数々のイタズラ、規則破りやそれを誤摩化す作戦、酒や女などもユーモアたっぷりに描写されます。
 当然ながら、海軍士官でもあるタフレールの経験が生きているのでしょう。この辺はエッセイのような趣もあるので、高橋孟の『海軍めしたき物語』とかが好きな人ならハマるかも知れません。
 正直、古い大衆小説なので余り期待していなかったのですが、数々のエピソードは楽しく読める上に、海軍の知識も得られ、十分満足できました。

 平時のみならず、戦時も呑気なユーモア小説ですが、一応は「戦記」としての側面もあります。
 そのクライマックスとなるのが、第一次世界大戦における最も有名な海戦「ユトランド沖海戦」です。
 これは、一九一六年、デーマークのユトランド沖で、イギリスとドイツの主力艦隊が激突した戦いで、ドイツが戦術的には勝利したけれど、戦略的には敗北したといわれています。つまり、損害はイギリス艦隊の方が多かったものの、ドイツは制海権を得るまでには至らず、北海に封じ込められたわけです。

 海戦の描写は非常に細かく、さすがは体験者といった感じ。勿論、史実どおり正確に記述されるので、歴史好きや軍事マニアなら欣喜雀躍しそうです。
 タフレールは「どんなに慧眼な觀戰武官を連れて來ても自分獨りの觀察と經驗だけからして海戰の全般を描寫することは出來ない。殊に古今未曾有の大艦隊が各種の狀況の下に、午後の三時半から翌日の同時刻に掛けて斷續的に而も戰線數浬に亙って戰った戰鬪に於て然りである」といいわけしていますが、自らの体験をできるだけ詳細に記録しておきたいという情熱が伝わってきます。
 この本は当時、英国で相当人気があったそうなので、ひょっとするとセシル・スコット・フォレスターの「ホーンブロワー」シリーズ(1948〜)にも影響を与えたのかも知れません。

 さて、マルチンは歴史に名を残すことはできませんでしたが、名誉の負傷を負い、凱旋します。
 そして、二等水兵に昇格し、愛するエメリンと結婚をして、めでたしめでたしとなります。

 なお、ゴールディングの『ピンチャー・マーティン』の元となったエピソードは、宣戦布告直後のできごととして描かれています。
 Uボートの攻撃を受け、ベリジェレントが沈没し、マルチンらは海に投げ出されます。ゴールディングのマーティンと異なり、マルチンはしばらく漂流した後、救助艇に助けられるのです。

 作中ではサラッと書かれていますが、マルチンは浮き袋ひとつで海上に浮かんでいるとき、助けを求めてしがみついてきた同僚の「手をもぎ取り脚を蹴つて跳ね付け」自分だけ生き残ります。
 このような状況で他人を救うことは困難とはいえ、良心の呵責に苦しむことなく割り切ってしまえるわけです。また、ベリジェレントが沈没したお陰で、新造の駆逐艦マリナーの乗組員へとレベルアップできたことを無邪気に喜んだりもします。
 ゴールディングは、こうした利己的な面に目をつけ、新たな物語を創造したのでしょうか。

 ちなみに『ピンチャー・マーティン』で重要な小道具となった「長靴」は、『三等水兵マルチン』では海上ではなく、まだ甲板にいるとき、あっさり脱ぎ捨てられます。

※:古い本なので変な訳も多い(艦内における素人芝居の場面で「いよう、成田屋あ」という掛け声が掛かるとか)。
 なかでも気になったのは「が相撲と違つて引分けにする譯にも行かないので」という部分。原書ではどうなっているのか知らないが、現在の相撲では引分なんかほとんどない。調べてみると、昭和初年の取り直し制度導入以前は、結構あったらしいが……。


『三等水兵マルチン』世界大衆文学全集31、福永恭助訳、改造社、一九二九

戦争文学
→『黄色い鼠井上ひさし
→『騎兵隊』イサーク・バーベリ
→『』ワンダ・ワシレフスカヤ
→『イーダの長い夜』エルサ・モランテ
→『第七の十字架』アンナ・ゼーガース
→『ピンチャー・マーティンウィリアム・ゴールディング
→『ムーンタイガー』ペネロピ・ライヴリー
→『より大きな希望』イルゼ・アイヒンガー
→『汝、人の子よ』アウグスト・ロア=バストス
→『虚構の楽園』ズオン・トゥー・フォン
→『アリスのような町』ネヴィル・シュート
→『屠殺屋入門ボリス・ヴィアン
→『審判』バリー・コリンズ
→『裸者と死者ノーマン・メイラー

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