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読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ピンチャー・マーティン』ウィリアム・ゴールディング

Pincher Martin: the Two Deaths of Christopher Martin(1956)William Golding

蝿の王』のように誰もが知っている作品があり、『我が町、ぼくを呼ぶ声』のようなゴミもあるノーベル賞作家ウィリアム・ゴールディング
 どうも過大評価されている、というか、少なくともノーベル賞を受賞するような作家ではないと思うのですが、まあ、いかなる賞も趣味の読書には何の関係もないからよしとして、個人的には『ピンチャー・マーティン』が一番好きです。

 ただし、この小説の感想を書く際、「一切ネタバレしない」というのは非常に難しい。しかも、真相は様々な解釈が可能であり、そのせいで余計にややこしくなっています(その点は、解釈が百八十度変わってしまったマシャード・ジ・アシスの『ドン・カズムッホ』に似ているかも知れない)。

 一部、白黒反転文字にしますが、「あらすじ」以降はそういうわけにもいかないため、未読の方はお気をつけください。
 なお、集英社文庫の「解説」は、初っ端から思いっ切りネタバレしているので、本編を読む前に開かない方がよいでしょう。

蝿の王』は、ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』やロバート・マイケル・バランタインの『さんご島の三少年(無人島の三少年)』、リチャード・ヒューズの『ジャマイカの烈風』との類似が指摘されていますが、元々ゴールディングは、様々な先行作品を取り込むタイプらしく、『ピンチャー・マーティン』も、ギリシア神話(プロメテウス)、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』、ウィリアム・シェイクスピアの『リア王』、ドルトン・トランボの『ジョニーは戦場へ行った』、そしてアンブローズ・ビアスの「アウルクリーク橋の一事件」などを思い起こさせます。

 いや、実をいうと、もっと直接的なネタ本があります。
 それが、ヘンリー・タフレール・ドーリングの『三等水兵マルチン(Pincher Martin, O. D.)』(一九一六)です。僕は読んでいないのですが、書名は勿論、海兵が海で遭難するというストーリー、長靴という小道具の扱い方などそっくりだそうです。
『三等水兵マルチン』は当時よく売れた海軍小説らしく、それ以後、英国海軍ではマーティンという姓の人はピンチャーという渾名をつけられることが多くなったとか(遠山って名前の奴が「金ちゃん」という渾名になるようなもんか)。ゴールディングの小説の主人公クリストファー・ハドリー・マーティンが、ピンチャーと呼ばれるのも当然、この作品のせいです。

 第二次世界大戦の最中、大西洋沖で乗船していた駆逐艦Uボートの攻撃を受けて沈没し、英国海軍士官マーティンはたったひとり洋上の孤岩に取り残されます。
 ロビンソン・クルーソーほどの希望もない状況で、彼は生きるため必死に戦います。食べもの、水、眠る場所を確保し、心身の調子に配慮し、救出してもらえるよう策を練るのです。
 それと同時に、マーティンは過去に思いを馳せます。劇団に所属していた頃や海軍での思い出が断片的に描かれます。
 やがて、マーティンは……。

 以下、ネタバレがあるので、未読の方は、ご注意ください。





 ラストシーンにおいて、マーティンは、とっくの昔に死んでいたことが明らかになります。生きるために悪戦苦闘したことは幻だったわけです。
 つまり、この小説は、恐らく十秒ほどのできごとに約二百五十頁を費やしていることになります。約八十頁で数世代の歴史を描いたロサリオ・フェレの「呪われた愛」とは対照的ですね。

 肝腎なのは、この結末をどう捉えるかです。
 大きく分けて二通りの解釈があり、ひとつは死の直前、一瞬の間にフラッシュバックした記憶を描いたという考え方。
 もうひとつは、肉体を離れた魂が煉獄を彷徨いながら、生前を回想したという説です(アラスター・グレイは、『ラナーク』において、『ピンチャー・マーティン』を、ウィンダム・ルイスのHuman Age Tetralogy、フラン・オブライエンの『第三の警官』と並べて扱っている。つまり、グレイは、後者の説を取っているらしい)。

 ひとつめの解釈は、極めて残酷です。
 必死に生きようと努力した一週間は全く無意味であり、その上、いかにも通り一遍の「名誉の戦死」で片づけられてしまうのですから救いがないにもほどがあります。
『ジョニーは戦場へ行った』のジョーは、手足をなくし、視覚・聴覚・嗅覚・口を失いながら、無理矢理生かされますが、個人の意志が無視されるという点では同じくらい悲惨かも知れません。それ故、反戦小説として評価できるのですが……。

 一方、後者の解釈は、魂の救済を目的としているようにみえます。
 マーティンは自己中心的な人物で、いわば他人を踏みつけて生きてきました。「ピンチャー」には「あちこちの女をつまみ食いする奴」という意味もありますが、自分の思いどおりにならない女性(メアリー)を力づくでものにしようとしたり、演出家の妻に手を出そうとしたり、我がまま放題にふるまってきたのです。
 しかも、メアリーが、マーティンの親友であるナットと結婚すると、自分勝手な嫉妬心から、同じ船に乗っているナットを殺そうと策略します。結果的にそれが駆逐艦の沈没につながるのですから、同情の余地は全くありません。

 読者は最初、絶望的な状況にもかかわらず、決して挫けることなく生にしがみつくマーティンを応援するかも知れません。しかし、彼の本性が明らかになるにつれ、「死んで当然」という方へ大きく気持ちが傾くのではないでしょうか。
 何しろ、沈没の原因が自分にあるにもかかわらず、それを反省するでも、死んでいった仲間のことを悼むでもなく、ひたすら自分が生き延びることだけを考え続けるのですから、正にエゴイスティックの極み。『蠅の王』もそうでしたが、底知れぬ悪意を描くのは本当に上手い。

 さて、そう考えると、前者の解釈の方が実はスッキリします。マーティンがどんなひどい目に遭っても、自業自得の一言で片づけることが可能だからです。
 けれど、それでは、どうしてもビアスの二番煎じに過ぎなくなります。インパクトに欠けるし、深みも出なくなります。

 マーティンの肉体が救助されなかったのは身から出た錆だとしても、彼の魂は地獄へは堕ちず、煉獄において清められる可能性を残していたのかも知れません。
 それが回想部分に当たるのですが、それによってマーティンの霊魂が救済されたと考えるのは、少々虫がよすぎます。
 タイトルに「The Two Deaths of Christopher Martin」とあるからには「貪欲の罪を犯したクリストファー・マーティンは、死後、二度目の死を迎え、地獄に堕ちた」と考えるのが自然ではないでしょうか。

 それにしても、二度も奈落に突き落とすとは、いかにも容赦のない仕打ちで、後味の悪さは『蠅の王』を凌ぎます。
 憂鬱な気分になりたい方に、お勧めです。

 なお、この本には「蠍の神様」という古代エジプトを舞台にした物語が併録されています。これは『The Scorpion God』という短編集に「Clonk Clonk」「特命使節」とともに収録されたものですが、日本ではバラバラにされています(三作には、緩やかなつながりがあるらしい)。
 ちなみに『我が町、ぼくを呼ぶ声』の原題は『The Pyramid』ですけど、エジプトとは関係ありません。

『ピンチャー・マーティン』井出弘之訳、集英社文庫、一九八四

ロビンソン・クルーソー』関連
→『フライデーあるいは太平洋の冥界』『フライデーあるいは野生の生活ミシェル・トゥルニエ
→『前日島ウンベルト・エーコ
→『敵あるいはフォーJ・M・クッツェー
→『宇宙人フライデーレックス・ゴードン