読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『親友・ジョーイ』ジョン・オハラ

Pal Joey(1940)John O'Hara

「親友・ジョーイ」(「親友」には「パル」とルビが振ってある)は、一九三八年から一九四〇年にかけて「ニューヨーカー」に連載された書簡体小説です。見方によっては十四の章からなる連作短編小説ともいえます。 
 さほどボリュームがないため、この本には更に十七の短編(ショートショート)が収められています。
 本書を訳した田中小実昌は、一九四六年発行のペンギンブックス版を底本にしたらしいのですが、そこにこれらの短編が全て収録されているのかどうかは調べられませんでした。

 シカゴ周辺でクラブの歌手をしているジョーイは、軽薄で、女好き。大抵は、金と仕事に不自由していて、ときどき痛い目にも遭いますが、陽気に毎日を過ごしています。
 そんな彼が、今では押しも押されもせぬ人気者となった友人に手紙を書き、近況を報告します。勿論、ジョーイはスターになる夢を持っているので、よい仕事があったら紹介して欲しいと訴えるのです。
 しかし、ジョーイの希望は、なかなか叶えられません。

 生き生きとした口語とスラングでの書簡体小説という点で、リング・ラードナーの『メジャー・リーグのうぬぼれルーキー』によく似ています。
 しかし、『メジャーリーグ〜』は、プロ野球のスター選手であるジャックが、田舎の友人アルに向けた手紙という体裁でした。アルは、ジャックの自慢やはったりや愚痴を聞かされるだけで、いわばジャックが捨てた過去や故郷を象徴する存在です。
 一方、ジョーイの手紙の相手であるテッドは、ニューヨークのスウィングジャズバンドのバンマスで、立場も人気もジョーイより遥かに上です。そのせいか、テッドは、ジョーイの手紙に返事すら出していない様子ですが、それはオチに関係するので後述します。

 一見、何にも縛られず、自由気侭に生きているようにみえるジョーイ。
 けれど、テッドと比較することで、ジョーイの惨めさが強調されます。自分を大物にみせようとしているものの、所詮は、場末の二流歌手であり、いつ消えてもおかしくない儚さがみえてくるのです。

 街の有力者に痛い目に遭わされたり、女に騙されたり、お払い箱になったりしても、お人好しのジョーイは笑ってやり過ごします。
 そうした強がりが格好よく思えるのは前半だけで、読み進めるにつれ、彼の陽気さが却って哀しくみえてきます。
 多分、ジョーイは一生うだつが上がらず、世間一般的な幸福とは無縁の人生を過ごすことでしょう。そのうち、歌の仕事もなくなり、女にも見放されて……という未来がみえるようです。

 また、手紙一通につきひとり、ジョーイの周りにいるショウビズや水商売にかかわる仲間のエピソードが語られます。
 滑稽な話が多いのですが、彼らもジョーイと同じ穴の狢で、底辺を蠢いているような痛々しさがあります。「馬鹿だなあ」と笑いつつも、最後にはホロリとさせられてしまうのです。

 そして、前述したオチについてですが、ネタバレになるため、以下、文字を反転させます。
 実は、ジョーイの手紙は一通たりとも投函されていませんでした。昔の仲間であるテッドは出世しすぎて、最早ジョーイが気軽に手紙を出せる相手ではなくなっていたのです。
 認めた手紙を出さなかったのは、今や別世界の住人となったパル(親友)に、自分の惨めさを曝け出したくなかったためではないでしょうか。
 ささやかな矜持とはいえ、さらに胸が締めつけられる、せつなく衝撃的なラストです。

 なお、併録されている短編も、多くは庶民のつましい暮らしをスケッチしたもので、幸せとは無縁の人物ばかりが登場します。
 わずかな枚数で、鮮烈な印象を残すテクニックはさすがです。「ひとり」や「腕を折るわけじゃなし」が特に優れているように感じました。

 また、オハラの作品は『世界文学全集 -20世紀の文学18』(集英社)に処女作『サマーラの町で会おう』が、『かよわき餌食・家庭の悲哀・医者の息子』(南雲堂)に四つの短編が収められています。以前紹介した『12人の指名打者』にも一編(「大いなる日」)が収録されていますので、そちらもお勧めです。

 ところが、オハラの小説のなかでは最も有名であろう『BUtterfield 8』(一九三五)に限って邦訳がありません。この小説はエリザベス・テイラー主演で映画化もされました。映画の評価は高くないとはいえ、リズがアカデミー主演女優賞を取っており、それなりに話題になったと思われるにもかかわらず、ついに訳本が出なかったという実に珍しいケースです。
 ちなみに『親友・ジョーイ』は、フランク・シナトラ主演で映画化されています。映画の邦題は『夜の豹』です。

『親友・ジョーイ』田中小実昌訳、講談社文庫、一九七七

→『12人の指名打者