読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『オブローモフ』イワン・ゴンチャロフ

Обломов(1859)Иван Aлeксандрович Гончаров

 今年は、絵に描いたような寝正月でした。
 お年玉をもらう歳じゃないのでソーシャルゲームの課金もできず、誘ってくれる友だちもおらず、食料の調達にコンビニへゆく以外は外出せず、ベッドを離れない日々……。

 そんな状態に相応しい本といえば、『オブローモフ』(写真)に尽きるでしょう。
「主人公の行動範囲は著しく狭い」「かなり特殊な思考の持ち主で、心情を理解しにくい」「議論ばかりしていて、大した事件が起こらない」「その癖、やたらと長い(全四篇が三分冊になっている。岩波文庫の旧版は四分冊)」と、忙しい人なら真っ先に避けるタイプの小説です。
 尤も、だからこそ「優雅な読書だった」と嘯くことができるのですが、他人がそれを理解してくれるとは限りません。

「お前、正月はどうしてたんだ?」
「んー。そうだなあ……。あ、そうそう。『オブローモフ』を読破したよ」
「そっか……(可哀想に。寂しい奴だなあ……)」
 てなことになり兼ねませんから、大っぴらにしない方がよいと思いますが……。

 さて、『オブローモフ』は、イワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャロフの代表作で、刊行当時、大いに話題になり「オブローモフ主義」という言葉まで生まれました。
 この「読書感想文」では名作や古典を扱うことが少ないのですが、理由は、それらが絶版でないためです。ところが、『オブローモフ』は、現在、新本では入手できません(岩波文庫なので、そのうち重版がかかると思うけど)。
 ミハイル・アルツィバーシェフの『サーニン』や『最後の一線』などもそうですが、このクラスの古典文学は、常に文庫で入手できるようにしておいて欲しいものです。

 ちなみに、ニコライ・ドブロリューボフの『オブローモフ主義とは何か?』の方は在庫があるようです(ゴンチャロフも『断崖』や『平凡物語』なら入手可)。

 さて、『オブローモフ』は読んだことがなくとも、その主人公であるイリヤー・イリッチ・オブローモフの名を知らない人はいないでしょう。ハーマン・メルヴィルの『バートルビー』のバートルビーと並んで、無気力なキャラクターの代表といえる存在です(※)。
 どれだけだらしないかというと……。

 サンクトペテルブルグに暮らすオブローモフは、三十歳を過ぎて独身の落ち目の領主。何をするのも億劫で、ほとんどの時間、自室のベッドで過ごしています。
 入れ替わり立ち替わり友人が訪ねてきますが、オブローモフは部屋から出ようとしません。仲間が出世しようが結婚しようが、オブローモフはどこ吹く風。彼が気にしているのは、家賃を滞納しているせいで部屋から追い出されそうになっていることと、領地からの収入が減ってしまいそうなことだけです。
 そんなオブローモフも、親友のシュトルツに発破を掛けられ、オリガという女性に思いを寄せることで、一時は気力が満ちてきます。しかし、本来の性質を変えるところまではゆかず、結局は怠惰な生活から抜け出せません。
 やがて、よくない友人にカモにされ、病に臥せり、若くして儚くなってしまいます。

 仕事も辞め、勉学も諦め、恋愛は面倒だと放棄し、日がな一日ゴロゴロしているオブローモフ
オブローモフ主義とは何か?』には「教養のある貴族インテリゲンツィア。高い理想を口にしながら自らは行動せず、無関心、そして怠惰」とありますが、「高い理想」というほど大したもんじゃなく、それどころか課題である領地の改良計画は全く進みません(頭のなかでこねくり回すことすらやっていない)。

 彼のそうした性質(オブローモフシチナ)が形作られたのは、故郷であるオブローモフカ村の人々の気質が大いに影響しています。
 その村では、労働は刑罰の如きものであり、好んでするべきではありません。先祖から与えられた生活を守ることだけが大切で、新しいことを知ったり求めたりする必要は全くない、とされているのです(何しろ、手紙が届いても、開封するまで四日かかり、返事を書くべきか二週間も悩み、結局そのままにしてしまう)。

 前回取り上げた『モレルの発明』の序文で、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが、奇しくもこんなことを書いています。
「ロシアの作家たちとその弟子たちは、人間のいかなる行為も不可能ではないことをうんざりするほど提示してくれた、――あまりの幸福感ゆえの自殺、慈悲心から出た暗殺、おたがいに熱烈に愛し合うあまり、永遠におたがいにはなれてしまう男女、激しい愛情ゆえの、あるいは謙遜ゆえの密告……」

オブローモフ』は正にその典型です。
「働くなんて馬鹿馬鹿しい。何も変えなくてよいし、何も知らなくてよい」と、はっきり書かれてしまうと、しばし迷ってしまいます。
 果たして、人間はいかに生くるべきか、と。

 何ら建設的なことをせず、無為に人生を過ごすオブローモフ。そんな彼の対極の存在として設定されているシュトルツは独立不覊の青年で、自ら事業を興し精力的に活動しています。
 一般的に、どちらが望ましいのかは明白ですし、当時の読者の多くもオブローモフに批判的だったからこそ、この本が大いに話題になったのでしょう。
 しかし、現代に生きる、明らかに前者寄りの人間としては、「ちょっと待ってくれ」と声を上げたくなってしまいます。

 弁護をするわけじゃありませんが、オブローモフは我が身の不運を嘆いたりはしません。「俺が不幸なのは××のせいだ」なんてことは口にしないし、考えてもいない。
 そもそも、引きこもりニートやモラトリアム青年とは異なり、彼はれっきとした領主ですから一定の収入があり、友人(たかり)も多くいます。また、オリガと恋愛していたときは、ごく普通の青年のように精力的な面もみせてくれました(物語の最後では、未亡人と結婚し子どもも儲ける)。
 要するに、オブローモフの欠点とは、若いのに冒険心を持たず、老人の如く安静と休息を何より望んでいることなのです。

 が、よく考えてみれば、これはそれほど突飛な性質ではありません。それどころか、優しく清廉で、争いを好まず、大きな問題も起こさず、他人に迷惑も掛けないのですから、美徳、いえ、聖人君子といってもよいくらいの人物ではないでしょうか。
 かつての恋人で、別れた後も想いを寄せ続けるオリガが、親友のシュトルツと結婚したことを聞き、心より祝福するなんて、普通の人にはとてもできません。実際、彼は沢山の人に愛されました。

 いくらあくせくしようと、名を成すなんてのは、ごく一握りの人に過ぎません。多くは、冴えないながらも平穏な人生に、まあ満足しつつ死んでゆくのです。
 若くして老成したオブローモフにとって、悪い奴らの奸計を退け生活が安定した後は、最早余生であり、早過ぎる死は必然だったのでしょう。そして、それはある意味、とても幸せなことだったのかも知れません。
 少なくとも僕は、そんな彼を、ちょっと羨ましいと思ってしまうのです。

 なお、オブローモフシチナのことばかりが取り沙汰されますが、最後の一行で、この大長編の語り手が明らかになるという仕掛けも面白いので、ぜひ。

※:『オブローモフ』と同時期に書かれたウィルキー・コリンズの『白衣の女』(1860)に登場するフレデリック・フェアリーも筋金入りの怠け者で、最後に呆気なく死んでしまう点がよく似ている。ジェイン・オースティン『エマ』に出てくるウッドハウス氏(エマの父親)も同類か。

オブローモフ』〈上〉〈中〉〈下〉米川正夫訳、岩波文庫、一九七六

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