読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『オババコアック』ベルナルド・アチャーガ

Obabakoak(1988)Bernardo Atxaga

 ベルナルド・アチャーガは、バスクの作家です。
 このブログは「国と地域」で分類しているので、どうしようか悩んだのですが、一応「スペイン」にしておきます。アチャーガは、スペイン語でも小説を書いていますし、バスク語の作品を自らスペイン語に訳したりもしているからです。
 なお、バスク文学は、ほかにキルメン・ウリベの『ビルバオ―ニューヨーク―ビルバオ』も訳されています(フェリペ・アルファウの『ロコス亭』にもバスクの話が収録されている)。
 一方、同じスペインでも、カミロ・ホセ・セラの『二人の死者のためのマズルカ』はガリシア文学、アルベール・サンチェス=ピニョルの『冷たい肌』はカタルーニャ文学ってことになるでしょうか。

 オババコアックというタイトルは「オババのものや人」という意味だそうです。
 オババは架空の土地で、『百年の孤独』のマコンドとか、フォークナーのヨクナパトーファのようなものと思っていただければよいと思います。ただし、『オババコアック』は長編ではなく、三部からなる作品集です。

 最初は「少年時代」と題して、バスク地方の郷土色を強調した五つの短編小説が並びます。五編につながりはありませんが、強いていうと余所者の疎外感や孤独といった共通点が見出せるでしょうか。
 次に「ビジャメディアーナに捧げる九つの言葉」という紀行が続きます。こちらはバスク地方の話ではありません。プロローグと九つの断片に分かれており、連作短編小説のような趣もあります。
 ラストの「最後の言葉を探して」は中編小説です。小説についての小説、いわゆるメタフィクションで、作中作なども織り込まれます。
 このように、やや変則的な構成ですが、統一感のあるトーンなので戸惑うことはありません。

 総じて幻想的な作品が多く、終始不思議な雰囲気に包まれています……と書くと、無知で野蛮な人々と、土着の信仰や風習をマジックリアリズムを駆使して描いた作品を思い浮かべるかも知れませんが、それとは明らかに違います。
 小さな奇跡は、人々の想像のなかだけに存在し、決して大ごとにはならないし、暴力やセックスの匂いは稀薄。それどころか、一昔前の優しく懐かしいときの流れに巻き込まれたかのような感覚に浸ることができます。
 派手さはないけれど細部まで目のゆき届いた佳作で、落ち着いた読書に最適です。

少年時代」Infancias
 最初の短編「エステバン・ウェルフェル」(Esteban Werfell)が素晴らしい。
 ハンブルグからやってきた技術者ウェルフェルと息子のエステバン。ウェルフェルは、教会にも通わず、オババに馴染むのを避けようとしています。しかし、エステバンは友人たちに誘われ、教会に通うようになりました。そんなある日、彼はハンブルグに住む少女の幻をみて、失神してしまいます。後日、彼女が口にした住所に手紙を出してみると、何と返事が返ってきたのです。

 父の息子に対する愛を表現しているとはいえ、冷静に考えると狂気に近い。尤も、父の蔵書を受け継ぎ、一万冊を超える書籍に囲まれて暮す男にとっては、至福の思い出なのかも知れません。

「リサルディ神父の公開された手紙」(Exposición de la carta del canónigo Lizardi)も孤独な父と子(意外な結びつきだが)の物語で、「闇の向こうに光を待つ」(Post tenebras spero lucem)は寂しい若い女教師と牧童との悲しいすれ違いを描いており、地味ながら心に響きます。

ビジャメディアーナに捧げる九つの言葉」Nueve palabras en honor del pueblo de Villamediana
 ときを経て出会った、膨大な記憶が溢れ出す男と、記憶をなくし新たなことも覚えられない男。「私」が「一体、どれくらい記憶が必要か」と精神病院長に問うと、九つの言葉という答えが返ってきました。それに従い、かつて滞在していたカスティーヤのビジャメディアーナという寒村を九の言葉で表現しようとします。

 アルフォンス・ドーデの名前が出てきますが、正しく『風車小屋だより』と同系統の作品です。僕はこの手の滞在記(素朴だけど、排他的な村人たちとの交流を描いたもの)に目がありません。
 最初、敵のように思えた村は、次第に「私」を優しく包んでくれるようになります。同時に、粗野な村人が、実は哲学者や詩人の如く深い思想を備えていることに気づくのです。

最後の言葉を探して」En busca de la última palabra
 作家志望の「私」が、少年時代に撮った写真の謎を解くため、さらに、彼の南米帰りの叔父が定期的に開く自作の朗読会に参加するため、医師である友人とふたりでオババを訪れます。

 この作品の軸のひとつは、子どもの頃の集合写真にまつわる謎です。リチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』ほどではありませんが、引き延ばされた一枚の写真をみて、ある疑問を感じ、真実をみつけるため、語り手は故郷に戻ります。
 彼が気になったのは、トカゲを手にした少年と、突然、白痴になってしまった少年。そして、トカゲが耳から脳に入り込み、脳味噌を食ってしまうという大人の嘘との関係でした。

 叔父によって合理的な(?)説明がされるのですが、ラストではそんなものどうでもよくなるくらい幻想的なことが起こります。トカゲのいる小屋に閉じ込められるといったホラー風味の味つけもあるものの、ここでは恐怖や不思議さを強調する意図はなさそうです。
「私」は「一冊の本を一頁に、一頁を一文に、一文をひとつの言葉に」することに取り憑かれているがために、頭のなかからあらゆる無駄な言葉が消えてしまったとでも解釈すればよいのでしょうか。文字どおり、文学に入れ込み、身を滅ぼすことになったといえます。

 このことからも分かるとおり「最後の言葉を探して」は典型的なメタフィクションであり、もうひとつの軸は、登場人物による文学論、創作論です。
「私」は間テクスト性未来の文学の可能性を見出し、叔父は十九世紀以後に書かれた小説はすべて盗作だという立場で対立します。しかし、叔父は夢のなかで、バスクの偉大な文学者に剽窃することを勧められ、盗作だとバレないような工夫を検討することになります。そして、実例として「凍った雪のクレパス」(Una grieta en la nieve helada)という短編を作り上げるのです。
 実は、この短編の元ネタが何なのか、作中でも「訳者あとがき」でも明らかにされません。が、これはオーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダンの『新残酷物語』(Nouveaux contes cruels)のなかの一編「希望による拷問」(La Torture par l'espérance)ではないかと思われます。

 この一編に限らず、登場人物の文学理論の実践編ともいえる作中作が数多く収録されている点がユニークです。
 それらは独立した短編としても勿論、楽しめますが、結末を書き換えたバージョン違いや、マトリョーシカのような何重もの入れ子、フィクションだと思っていた人物が現れたりなどなど、構造の妙も堪能できます。
 しかも、作品の舞台はオババを遠く離れるため(バグダットやアマゾン、ハンブルグなど)、読者の目先を変え、退屈から解放させる効果もあります。

 なお、「最後の言葉を探して」では、前述のヴィリエ・ド・リラダンのみならず、アントン・チェーホフの「ねむい」、イーヴリン・ウォーの「ラヴディ氏のささやかな外出」、ギ・ド・モーパッサンの「首飾り」について言及されています。多少細工しているとはいえ、ネタバレを含みますので、未読の方はご注意ください。

『オババコアック』西村英一郎訳、中央公論新社、二〇〇四